2019年4月21日の説教要約 「生ける神に仕えるとは」

2019421日の説教要約

     「生ける神に仕えるとは」  エミリー・スミス宣教師

 

≪それからトマスに言われた、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」≫   (ヨハネによる福音書20章24~29節)

 

 アメリカにいる無神論者の弟が質問してきました、「キリスト教は、他の宗教とどう違うのか?」。私の弟だけでなく、教会に来る人の中にもこれに近い疑問を持っている人はいると思います。私の答えは、聖書の神は唯一の生ける神だということです。そしてそれはどういうことかを考えてゆきたいと思います。

 

1、          エスには命がある

ヨハネによる福音書1125章に、「わたしは復活であり、命である。」とあります。

ここを読んだ時、どうして復活の後に、命という言葉がきているのか。イエスはなぜ「私は復活です」だけで終えなかったのか。不思議に思いました。

復活はイベントではありません。復活は、人のためのものです。

最近、友達になった人たちがいます。とっても気が合い、すぐに溶け込みました。一緒に笑いあいました。でも、彼女たちは霊的には死んでいるのです。彼女たちは命を持っていない。彼女たちには、復活が必要です。でも、私は彼女たちを生かすために私の命をあげることはできません。それができるのは、聖霊なる神だけです。

人が死んだ後の復活があるとしたら、それはイエスの中にあります。けれども、イエスは復活という業をしたのではなく、復活した人に命を与えたのです。神が私たちを変える時、神は私たちの命の中に、神の命を吹き込んでくださるのです。

エスは、「あなたを復活させたから、あとは自分で生きていきなさい。」とは言いません。イエスはよみがえりの命そのものですから、私たちを毎日生かしてくれます。

 毎日一緒に住んでいる夫婦であっても、まったくコミュニケーションを取らず、お互いに交わりを持たないとしたら、その結婚生活は死んでいます。お互いに感謝もなく、共に住んでいるだけの結婚生活には命がありません。

私たちは、イエスに対してどうでしょうか。そのような態度をとっていないでしょうか。イエスは私たちを花嫁として交わりを求めているのに、すぐ近くにいる生ける神なのに気づかずいることはないでしょうか。

 

2.          神との関係の回復

日本人の友達から日本人の信じている習慣について聞きました。彼女はお盆について、仏様のこと、日本人が拝む神について話してくれました。「その神様に祈るの?」と私が聞くと、「神社に行ったときは祈る。」と答えました。「では、神社以外の所でその神様と交わりを持つことはないの?」と聞くと、「ありません」と答えます。

そのような神は彼女の友達ではないのです。

キリスト教は、それとは違います。キリスト教は、生ける神である方が私たちのことを知っておられ、私たちと関りをもってくれる神様です。

私たちを造ってくれた神様は、人間との関係が回復することを願っておられます。イエス・キリストは十字架の上でそのことをしてくださいました。

多くの人の信仰観は、神がくださる祝福を求めるだけで、神自身を求めようとしません。まるでピーターパンに出てくるティンカー・ベルがまき散らす魔法の塵のようです。それは彼女がまき散らしているものですが、彼女自身ではありません。

神様の中には、赦しも、聖さも、強さも、忍耐もすべてがあります。私たちには神様が持っている何かではなく、神様ご自身が必要なのです。

 

3.          復活はイエスの死を通して

私の好きなクリスマスの歌で、マイナーコードのものがあります。赤ちゃんとして生まれたイエスは死ぬことを目的として生まれたことを示唆する曲です。

神は私たちとの関りを回復するために、イエスに私たちと同じ肉体を与えたのです。家畜小屋には誕生の喜びだけでなく、死を示唆する匂いがありました。

エスの復活もまた、ただのお祝いではありません。まず死がなければ、復活もありえません。イエスが死ななければ、死人からよみがえることはありませんでした。

私たちも、己に死ぬことなしに復活の命を経験することはできません。

フィリピの信徒への手紙31011

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあずかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」