2018年8月26日の説教要約 「神様の義」

2018年8月26日の説教要約
「神様の義」  村岡貞海牧師

ヨハネ8:1-11>


今日の御言葉を通して、神の義をさらに深く考えてみましょう。

今まで、私たちが考えられなかった方法で、神様は義を示しておられます。
困るので避けていた事柄を、この困難な状況の中で、神様は義を示しておられます。
エス様はどのように神様の義を表し、恵みを表すようにしてくださっているのかを見てまいりましょう。
今日のイエスの御言葉を通して、神様の愛を表し、神様の聖さを保つ、神の義を見ることが出来ます。


11節 イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。聖書を通して、以前には考えられなかった、新しい希望、新しい信仰、新しい愛が体験できます。

今日の本文では、イエスとパリサイ人と姦淫した女性が出てきます。

エスは、朝早く宮に入られると人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられました。いつもイエス様は、病人を直し、貧しい者と罪人と一緒にされる、神の言葉を教えておられます。

バリサイ人はいつもイエスをためして、訴える口実を得ようとします。彼らの目的はイエスを罪に陥れることでした。

パリサイ人たちは、なぜイエスにこんなにも問い続けているのでしょうか。

エスをためしているパリサイ人の姿は、創世記3:1節の試しと似ていることに気が付きます。「主なる神が造られた野の生き物のうちでヘビが最も狡猾(こうかつ)であった。ヘビは女に言った。『園にあるどの木からも取って食べるなと言われたのですか』」

蛇は女を試しています。アダムとエバは、これにより、罪を犯すようになります。神の言葉に逆らい、自分の判断で誘惑に負けます。ヘビは人を滅ぼすのが狙いでした。

パリサイ人もの女性の罪を利用し、イエスを試し、訴える口実を作ろうとしています。

今日の本文を見ると、パリサイ人たちの訴える口実は二つに一つの結論になる予定でした。

エスが姦淫した女を殺せと命じれば、貧しい人を救わない、イエスの愛に反していることになる。イエスが 罪人を処罰しない場合、モーセの律法を犯す罪になるのです。

一、イエスは光として来られた。

ヨハネ福音書の全体を通して知ることが出来るのは20:31「しかし、これらことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じてイエスの名によって命を得るためである。」と何回も強調されています。

一つ取り上げます。出エジプト記25章に幕屋の中に「贖いのふた」と箱があります。その中には十戒の戒めが書いている石が入っています。この十戒の石は初めに作られた物ではありませんでした。二回目に作られた物でした。

初めに作られた十戒の石の板は、モーセが祈りに行っている間に、イスラエルの人々がモーセを待つ事ができずに、金の子牛を作って、金の子牛を神として拝み、すわっては、飲み食いし、立っては戯れ(たわむれ)た。そのことで神様の怒りを沈めたモーセでありましたがモーセも怒り、金の子牛の祭壇に十戒の石板を投げて壊したのです。

その後もう一度、モーセは民の為に切実なとりなしの祈りをして、十戒の石の板を神様からいただき、約束の箱に入れることが出来たのであります。

不従順な民の為に切なる祈りを捧げたモーセは「今、もし、彼らの罪をお赦しくださるものなら。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」と祈りました。

この祈りによって与えられた十戒の石の板を「贖いのふた」で覆います。

贖いのふたの上に、大祭司が一年一回、犠牲の血を注ぎます。その場所を恵みの御座と言います。モーセのとりなしの祈りのようなイエスキリストの贖いの血を表します。

律法が与えられても守れない民がいました。罪を犯す民を命がけで助けようとしたモーセ。同じように、律法を与えても守れないのが私たちです。

その罪は死に値するものです。だから主イエスキリストは十字架にて死なれました。

そのお方が「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」とこの世に光を照らしてくださいました。

二、パリサイ人たちの暗闇(非人格的、選別的、刑罰的であった。)

6-7節 パリサイ人たちはイエス様に、律法を守り、正しい裁きをしてくださいと問い続けます。しかし、イエス様は、パリサイ人たちの内面の姿を明らかにされました。

①パリサイ人は非人格的であるということです。

エスを攻撃するために罪びとの女を利用したのです。
一人の人の人格と価値を尊重していない、他の人を無慈悲に捕らえています。
私たちが慎重にすべきことは、他人の弱点を利用して、自分の利益を得ようとしてないか。その人がどのような罪の中にあっても、神の前に正しく立てるように助ける必要があります。

パリサイ人たちは、集団を結成し人を非難しており、他人の罪を暴き出し、恐怖を与えています。恐怖を与え、自分の利得のために働いていながら、神のために、人々のためにすることだと言っています。

②パリサイ人たちは、選別的でした。

男を放っていたということです。旧約聖書では、必ず男性も女性も一緒に罰を受けるべきでした。このように、律法主義者たちは、他の人を非難しますが自分たちの罪には気が付きません。

エス様もパリサイ人を叱ります。良き言葉を言い、教えているが自分たちは行わないと話しています。彼らは、他人に重い荷物を背負わしては、自分たちはしないのです。
選別的にせず、私たちも同じく自分の隠れた罪を認めるべきだと思います。

ローマ2:11節では、「神には、かたより見ることがないからである。」神様は正しい方です。自分の子供であっても、神様は間違いを教えてくださいます。

パリサイ人たちは自分たちに罪があることは全く考えていませんでした。

しかし誰もがイエスの前に出ると、真の光によって、捕らえている女の罪だけでなく、自分たちの罪も明らかになるのです。

私たちはすべて自分の罪を告白するとき、神の許しの恵みが臨みます。

③パリサイ人たちは刑罰的です。

律法は正しく、神の戒めでありますが、律法の全て守れる人はいません。パリサイ人は、刑罰を要求しました。罪を起こした女の新しい生活には、関心さえもありませんでした。

エス様は沈黙して地面に字を書きました。その女を罪がないとは言いません。無罪とは言いません。その女の罪は認められますが、その罪は赦されています。

エスは言われます。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

三、神の義を現わすイエス

恵みは、イエス・キリスト。律法は罪に定めます。

神であるイエスは赦しました。ローマ8:1 わたしはあなたを回復する。死は去りました。呪いは消え去りました。

わたしはあなたを赦すために、十字架で贖いの血を流しました。私たちにパリサイ人のような罪はないでしょうか。悔い改める時、主の恵みは与えられます。恵みは、それらを変化させる愛です。世の光です。

罪を悔い改めるためには、自分自身の罪を正しく見ることが必要です。

それが出来た時、新しく歩むことができます。パリサイ人にも、罪びとの女にも悔い改め、帰る機会が与えられました。

エス様は神の義を表してくださいました。新しい命と変化を与えてくだいました。

神様はイエス様を通して、私たちに新しい命をくださいました。賜物を与えています。

神の義を、神の愛を神の赦しをいただきましょう。

お帰りなさいという言葉は、自由を与え、解放してくれたと言うことです。

帰りなさい。新たにはじまるのです。新聖歌233驚くばかりの恵みによって。