2018年9月2日の説教要約 「あなたがたを休ませてあげよう」

2018年9月2日の説教要約
 「あなたがたを休ませてあげよう」   中道由子牧師
≪疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。≫
              マタイ福音書11章28~30節

私たちには、精神的な休み、肉体的な休み、さらに霊的な休みが必要です。
今日も3つのポイントからお話しします。

1、わたしのもとに来なさい
 28節「疲れている者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」
肉体を使って疲れる、ということがあります。たとえば暑い夏、今年も高校野球がありました。炎天下で、延長戦を必死で戦っている球児たち、応援席で声を張り上げている応援団、チアガールたち。試合が終わると疲れるでしょう。しかし、その疲れは爽(さわやか)やかなものでしょう。ここでの疲れは、肉体的な疲れではないことは、明らかです。肉体的な疲れは、体を休ませれば回復していきます。
体はそんなに動かしていなくても疲れてしまうということがあります。
エレミヤ31章25節「わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。」
ここで、「疲れた魂」と「衰えた魂」はイコールであると思います。
現代語訳聖書ではここを「しぼんだたましいを満ちたらせる。」と訳しています。
疲れた心はしぼんでしまうのです。
 元ノートルダム清心学園理事長であった、渡辺和子先生はこのように書いています。
「このイエスのみ言葉が、何度、くじけそうになった私を立ち上がらせてくれたか、わかりません。管理職という立場は決して華やかなものではなく、むしろ淋しいものだということを三十代半ばで四年生大学の学長に任命されて以来、50年の間、数々の責任ある立場に置かれて味わいました。与えられた任務が思うように行かないとき、あらぬ中傷を受け、信じていた人たちに裏切られたとき、しかも、それが自分の愚かさの結果と分かったときのやるせなさは、自己嫌悪につながってゆきます。そんな時、イエスの『わたしのもとに来なさい』というみことばに救われるのです。肩に食い込んでいる重荷を外して下さるだけでなく、それを、ご自分の荷とくびきに替え、背中をポンと押して、人生を新しくやり直す勇気さえも与えて下さるのです。」と。世の厳しさの中で、主の元で心立ち直らせていただいた人だけが書けるものです。
10章で、12弟子を選び派遣をしたイエス様は、この働きがいかに労苦の多い業であるかをご存じでした。世の仕事も精神的にタフでないと出来ません。が、宣教の働きは霊力を使うものです。聖霊の助けが必要です。そして、霊的な働きをすれば霊的な疲れと渇きを覚えます。それは、イエス様しか癒やせない疲れだと思います。
だから主は弟子たちの労苦を知っておられて、わたしのもとに来なさい、と招かれた。
その主は、今朝私たちをも招いておられます。
ああ、心が重い、疲れたと思うとき、どうしますか?私たちは休みを取ります。
ああ、ぐっすり眠りたい、と言って、眠れば休みになるのでしょうか。
しばらく仕事を離れて、好きな山や海に行ってレジャーを楽しむ、それもいいでしょう。
そもそもレジャーというのは、ギリシャ語の「スクール」から来ていると聞いたことがあります。疲れているのにスクールに行って学ぶの?と疑問を持ちますね。ところが、このスクールは、いつもやっていることと、全く違うことを学ぶという意味があったそうです。確かに、休みの日にいつもやらない違うことをやって、疲れをとる方法もあります。
仕事が山積みになっても疲れるけれど、仕事がなくても人間は疲れるものです。
人間は何もしなくて休んでばかりいても疲れる存在なのです。
私たちは「ああ、休みたい、休みたい」と思いながら、本当の休みが分からず、疲れをためているのかも知れません。
 イエス様がここで「休みなさい」と言っておられる休みは、どのような休みなのか第2ポイント、第3ポイントで説明いたします。

2、わたしのくびきを負いなさい
 「くびき」とは、もともと重荷を負うときに用いられる道具です。牛や馬が働かされるときに、体につけさせられる物です。農夫はその牛馬を休めるために、ねぐらにつれて帰るときには、「ご苦労様」と言って、肩をたたきながらその肩に着けられたくびきをはずすのです。ちょっと休ませ、またくびきをはめます。しかしここで、イエス様はくびきを負って、負いつつ休みを得る、と言っています。くびきを負っている者には休みはないから全く取ってあげようと言うのではない。私たちの人生は、激しい労働とやっと手に入れた僅かな休息の繰り返しの中で営まれています。イエス様は生きることは、くびきを負うことの中で、すでに憩い、くびきを負うことの中で、常に新鮮ないのちに生きる道があることをここで示しておられるのです。体に合わない背負子(しょいこ)をおうと腰や肩が痛くて力が入ります。でも体にぴったり合う背負子を負うなら荷は軽くなります。くびきも自分に合っていなければなりません。軽くてからだにあっているくびきを負うなら、どんなに重い物でも楽に負うことが出来ます。イエス様は私たちそれぞれに合うくびきを与えて下さるのです。そして主がともに負って下さるのです。それは柔らかく、軽いのです。
当時の人々は、このくびきをおきてと解釈したのです。くびきがあって初めて私たちは重荷を運ぶことが出来ます。人生の重荷を背負いながら、生きていくときの最も優れた手立てとして、おきてに生きることが求められたのです。もともと旧約聖書の律法にはその役目があります。神の民、ユダヤ人が神の民にふさわしい生活をするのにどうしたらよいかという問いを抱いたとき、差し出された手引きであります。その道筋を示すものです。しかし、それが人を疲れさせてしまう物になってしまいました。
12章の「安息日に麦の穂を摘んだ」と言って律法違反になったり、安息日に手の萎えた人をいやしたから律法違反としたり、律法は人を縛っていきました。その時にイエス様はもう律法なんか守らなくていい、好きなように生きたらいいとは言わないで、「新しいおきてを与える」とおっしゃった。そして、「わたしに学びなさい」と言われるのです。

3、わたしに学びなさい
 主がわたしに学びなさい、と言うとき「わたしの弟子になりなさい」とおっしゃっておられます。弟子になって、わたしが生きるように生きてごらん、と。ともにくびきを負って下さる主に学ぶのです。「腹を立ててはなりません。」、「待ちなさい。」、「赦しなさい。」、「愛しなさい。」、「喜びなさい。」と主が教えて下さるとおりに従っていくのです。そこに休みがあります。そこに平安があります。
人として生きることは重いことです。主のおきてを学びながら、主のみ旨に従って生きることは、軽い生き方とは言えないでしょう。イエス様は、私たち一人一人の命、たった一つの命でも、全世界よりももっと重いと言われました。大切な命なのです。だから、やけをおこしてはいけません。イエス様が命をかけて贖って下さった命だから、あなたは何よりもかみさまにとって尊いのです。
 イエス様は「わたしに学びなさい。」と言われる前に、「わたしは柔和で謙遜な者だから」と言われました。自分は柔和だ、謙遜だと言える人がどれだけいるでしょうか。そして、そのようなこのわたしに、学びなさいと言える人がどれだけいるでしょうか。
ホーリネス教会はきよめ派ですが、よく聞く一句は、「きよめと賭けて おばけと説く。その心は 未だ本物を見たことがない」。痛いところをつきます。イエス様は本物だから「わたしに学びなさい」と言えたのです。
 主に学ぶ、柔和で謙遜なお姿は、ヨハネによる福音書13章に書かれています。
ヨハネ13章1節「イエスは、この世から父の元へ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
過越祭の前に、弟子たちの足もとに膝まずいて、汚れた弟子たちの足をお洗いになったイエス様のお姿。十字架の死を目前にして、弟子たちを愛し抜かれた主のお姿であります。

柔和は、忍耐と優しさによって形成されます。決して軟弱な優しさではありません。節制し、よくコントロールできる心で相手を謙遜に理解しようと努力する、温かい心です。かたくなになって相手を無視したりしません。
そして、柔和の内にある忍耐は、待つことができる心です。この忍耐を脅かすのが、焦りです。焦りは、もう少し待てば解決できるのに、不安になって待ちきれず、焦って行動することによってさらに問題が大きくなったりします。
最後に柔和は、訓練することによって身に付きます。生まれつき柔和な人はいません。柔和な人は、自分と違う意見を受け入れることのできる力です。報復しないで、傷を対処できる力なのです。これは、一日では作れませんが、訓練によって身に着けることができます。イエス様のお姿から学びましょう。このお方とくびきをともに歩くなら、休みを得ます。