2018年1月7日の説教要約 「あなたがたは地の塩」

○2018年1月7日の説教要約
『あなたがたは地の塩』               中道由子牧師
《あなたがたは地の塩である。だが塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって味付けられよう。》
                      (マタイによる福音書5章13節)

 昨年は「幸せな教会生活」をテーマに歩んできました。自分自身が主にあって喜ぶとき、それは外に反映していくものです。この幸せな、祝福の流れの中に、人々が招かれ、神の民となっていくことを願っています。
2018年の教会の御言葉はマタイによる福音書5章13節と14節、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」です。私たちの教会がこの地にあって、祝福の存在となりますように、私たち自身が今置かれている所で、祝福の存在となりますように。今年のこのみ言葉を今日の礼拝と次週の礼拝の2回に分けてお話します。

1、 塩はおのれを隠す
この箇所は、山上の説教八福の教えのあとに出てきます。そして、「あなたがた」とは、主が期待をかけておられる弟子達、主を信じている「私たち」のことです。山上の八福の教えは主を信じる者に与えられているだけでなく、この恵みを受けている者は「地の塩」になれるというのです。
 塩の効果
塩は、料理を作る時も他の素材を生かす働きをする。お菓子作りに塩を少し入れると上品な甘さになります。緑黄色野菜を湯がく時塩を少し入れると、鮮やかな色になります。けれども、もし塩が自己主張をしたら辛くて食べられない食事になってしまいます。わたしたちも、塩のようにおのれを隠して他者を生かす存在でありたい。
頑張って模範を示すことではなく、神によって生きていること、生かされていることを表すのです。
おのれを隠して味のある生き方をする、これが地の塩としてのあり方です。

2、 塩は不変
塩は人間にとってなくてはならないもので、保存する力があります。漬物や梅干し、魚の塩漬け乾物類、ハムを作る時も塩をたくさん使います。
旧約聖書の塩の契約
塩は不変の節操と友情を象徴しています。今日に至るまでアラブ人は共に塩を食したものを友と見なすと言われます。
穀物の献げものにはすべて塩をかける。あなたと神との契約の塩を献げものから絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。」(レビ記2章13節)
塩は純潔を表し、きよめの儀式において、献げられるものがきよめられるために塩を加えます。

イスラエルの人々が主にささげる聖なる献納物はすべて、あなたとあなたと共にいる息子たち、娘たちに与える。これは不変の定めである。これは、主の御前にあって、あなたとあなたと共にいるあなたの子孫に対する永遠の塩の契約である。」(民数記18章19節)
これは主なる神が祭司であるアロンに語っている契約で、塩とは、「変わらない」ということを意味して箇所です。
アロンは19章最後で死ぬが、神様はアロンの子孫に対してこれまでと変わらず支えることをここですでに約束してくださっています。

イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルを治める王権をとこしえにダビデとその子孫に授けられたことを、あなたたちが知らないはずがない。」(歴代誌下13章5節)
ここはユダの王アビヤが戦いで敵に呼びかけている箇所で、主なる神がダビデと交わした契約「ダビデのゆえにイスラエルを守り、祝福する」という契約は変わらないと宣言しています。
塩の契約とは、不変の存続と義務を象徴した契約で、神様が私たちに与えて下さる契約は、「救いの契約」です。
神の子として下さった私たちをどこまでも守り、赦し、この地上の生涯が終るまでこの信仰の歩みを導いて下さる約束です。私たちの救いの背後に家族の祈りや教会の祈りがありました。そして、この救いの契約は変わらず、私たちが祈る人々の救いに繋がっていきます。

3、 塩の優しさ
 13節に「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや何の役にも立たず、」
塩の効き目がなくなるとは、真実を失うことです。
 
「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9章50節)
塩は互いに和らぐという人間関係の平和を伝えています。クリスチャンが神との関係において真実を失い、人間関係において平和がたもたれないとしたら、それは塩気を失ってしまった塩ようです。この塩気は、優しい人でいることです。

塩は辛いというイメージがある私たちに聖書は違う表現をしています。
「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分るでしょう。」
(コロサイ4章6節)
口語訳では、「塩で味付けられた優しい言葉を語りなさい」となっています。人の心を心地よくする、優しい言葉を使うことです。特に外部の人に対して、福音を語るとき、救われた私たちは恵みの言葉を語る者でありたいと思います。