2017年12月31日の説教要約 「神と向き合う」

〇2017年12月31日の説教要約
「神と向き合う」     大久保啓示研修生
マルコによる福音書14章32節〜42節

自分の悩み事は、だれに聞いてもらうか?友人、家族、カウンセラー等の心の専門家、牧師等々。彼らに話を聞いてもらうことで、心に慰めを得たり、また何かの解決策を見出すときもあるだろう。しかし、時には誰に話を聞いてもらっても、心の平安を得ないときがある。そんなときはどうするか?
主イエスは、ゲツセマネという所に弟子たちから離れ、一人で祈られた。この後に起こる主イエスの十字架の苦しみを分かってくれる人は、一人もいなかったであろう。しかし、主イエスはこの苦しみを分かってくださる御方をご存じだった。それは、天の父なる神である。主イエスが神と向き合ったその姿から、3つのポイントで御言葉を見ていく。

1.神様はもっとも信頼できる御方

主イエスはが弟子たちから離れ、一人で祈られたことは、弟子たちが「頼りない」ということではなかっと思う。そうではなく、主イエスは、ご自身の恐れを一番わかってくださる方に話すことを選ばれたのだと思われる。36節で、主イエスが天の父なる神を「アバ、父よ。」と呼んでいる。この「アバ」というのは、小さい子どもが親に向かって「お父ちゃん」と呼びかけるような、親しい呼び方を指す。つまり、主イエスはそれだけ父なる神との関係が深く、そして信頼を寄せていたのだろう。誰かに信頼を寄せるということは、それだけ自分のことを一番よく知っていて、そしてよく分かってくれるからだ。

詩篇139篇に「あなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられた」と書かれているように、神は私たち一人一人のことをよくご存じである。悩みや苦しみで心が押しつぶされそうなとき、そしてそれが誰にも理解してもらえず孤独を感じるとき、神はいつでも私たちと向き合ってくださる。

2.心の内を叫ぶ大切さ

ルカによる福音書の同じ記事では、このとき主イエスは祈りの中で苦しみもだえて、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくようになったと書かれている。主イエスは、ご自分の苦しみを隠すことなく、正直に神に申し上げた。そのように自分をさらけ出すことで、諦めて目の前の境遇を受け入れることができるよう、心が変えられるのかもしれない。
以下、マックス・ルケードの著作を引用する。
“主はあなたの恐れをくだらないとか、馬鹿々々しいとは思われない。あなたにむかって『しっかりしろよ』とか『もっとがんばれ』とかは、おっしゃらない。あなたと同じ道を主も歩まれた。あなたが今どんな気持ちでいるか知っておられる。そしてあなたが何を必要としておられるのかもご存じだ。だからこそ、僕たちは祈りの最後を、イエス様が祈られたように結ぶのだ―「みこころのとおりにしてください」それは神のみこころだったのだろうか。答えはイエスでもあり、ノーでもある。神は十字架を”取りのける“ことはなさらなかったが、恐れは取りのぞかれた。”
神に祈るときは、自分の心の内を正直に打ち明けられるようにいたいと思う。

3.やがてわかるときが来る

主イエスの弟子たちは、この御方が苦しみの中で祈られている一方で、眠っていた。それは、主イエスがこれから遭われる苦しみのことを聞いていたにも関わらず、よくわかっていなかったからではないかと思われる。
他人の苦しみや試練にあっていることを理解するのは、とても難しい。しかし、後に弟子たちは「ああ、この方がそんなに苦しまれたのは、私たちのためだったのだな」と理解する。私たちも、周りにいる方々の苦しみや悲しみを理解するのが難しいことがあると思う。後にその人の苦しみを理解できる日が来るかもしれないが、せめてその方が苦しみの中にあることを覚えて、そばにいて、その方のために祈れるような者でありたいと思う。