先週の説教要約 「共に喜び 共に泣く主イエス」

○先週の説教要約
『共に喜び 共に泣く主イエス』               中道由子牧師
《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。》
                      (ローマの信徒への手紙12章15〜16節)


メリークリスマス!今日はローマ信徒への手紙の中からクリスマスのメッセージをお伝えしたいと思います。
ローマ人信徒への手紙は1〜11章は、キリストによる救いの恵み、12章以降は、救いの恵みを受けた者たちの具体的な生き方が書かれています。12章では、教会内における兄弟姉妹との関わりについて語れています。
12章15節の「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」の勧めは、「受容」、「共感」という言葉で、一般的にもよく言われています。私たちは一般倫理ではなく、福音の言葉として受け止めて行きたい。そして、福音によって生かされている私たちは、このように生きる恵みが与えられているのです。
本日は第3ポイントでクリスマスのメッセージを引き出していきたいと思います。

1、喜ぶ者と共に喜びなさい 
コリント1 13:4 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。」
丸屋真也先生:「この妬みは、心の非常に深いところにあります。妬みの特徴は、支配です。、愛を支配するのです。愛は支配された時から、しぼんでいきます。妬みは愛を破壊するからです。 しかしながら、この妬みは私たちの心の非常に奥深いところにあるので、自分でも気付きません。妬みがあるのに、相手の祝福を心から共有することが出来るでしょうか?ある人とは祝福を共有出来ても、別の人とは祝福を共有出来ないことが起こってきます。」

旧約聖書の中で、カインは弟アベルの献げ物に対して妬みを起こす箇所。
創世記 4:4〜6「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた、『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。』
 カインはアベルを祝福した神様に対して怒ったのです。 
新約聖書でもフィリピの教会の中でのことが書かれています。
フィリピ 2:3、4 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互に相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 利己心は口語訳では、 党派心と訳されています。その党派に属すると利益があるために、一生懸命やろうとしている、そういう党派心が、妬みから出てくることは明らかです。党派心は、人間の知識や知恵で克服出来るものではありません。虚栄心は、自分の値打ちに値しないものを、見せびらかすために自分の値打ち以上に、値つもりすることです。神様が他者になさっていることは、主の御心にかなうことなのだと受けとめるなら、その喜びを共感することができ、その祝福は喜びを共にした人に返ってくるのではないでしょうか。

2、泣く者と共に泣きなさい
 山中正雄先生:聴くと言うことは共に泣くことであり、共に重荷を担うこと。何も力になることが出来なくても人は耳を傾けてくれるだけで自分で立ち上がる決心をすることができます。

 マルタとマリヤの弟ラザロがなくなった時、主イエスは彼女たちの悲しみに寄り添った下さったのです。
ヨハネ 11:33〜35「 イエスは、彼女が泣き、一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか』。彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」

テサロニケ1 4:13 「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために・・・。」
「すばらしい悲しみ」著者グレンジャー・ウエストバーグ師:「悲しみなさい。しかし、他の望みを持たない人々のようにではなく」「いずれ来る良い事のために悲しみなさい」
今年も愛する人々を天に送られた方も多くいらっしゃいます。主イエスはその方々の傍に寄り添い、悲しみの中に新たな望みを与えてくださる、そのように傍らで祈るものとさせていただきたいを思います。

3,低い所に引き込まれるように
ローマ 12:16 「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはならない。」
共に喜び、共に泣く、鍵がある。思うことを一つにするとは、 キリストにおける一致であり、信仰によってお互いに謙遜になることです。
ここで、「低い者たち」という言葉に奥義が隠されてあります。新改訳や新共同訳では、「身分の低い者」と訳されています。「低い者」の「者」は、「低いこと」、「低いところ」とも訳すことが出来ます。カトリック訳では、「低いところに甘んじなさい」。人が軽蔑するような低い地味な卑しい仕事を甘んじてやりなさいと解釈されています。
 
「交わる」という言葉は、他の個所では、「引きずり込まれる」、「誘い込まれる」という言葉で表されています。
ガラテヤ2:13「そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。」
ガラテヤ教会で、ユダヤからやって来たユダヤ人クリスチャンが異邦人を差別した時、ペテロやバルナバもそれに「引きずり込まれ」て、異邦人との食事を避けるようになった。
ペトロII3:17 「それで、愛する人たち、あなたがたはこのことをあらかじめ知っているのですから、不道徳な者たちに唆されて、堅固な足場を失わないように注意しなさい。」
口語訳では、「誘いこまれる」と訳されています。
ローマ書12章16節「交わる」とは、低い者にせよ、低い所にあるものにせよ、それらによって魅了されて引きずり込まれていく、心捕らわれて底まで降りていく、そのような交わり型なのです。
*主イエスこそ、最も高いところにおられた方が、罪人である私たちに魅了されたかのようにこの世に来て下さり、さらには十字架という最も低いところへと降りてきて下さったのです。