2022年7月31日の説教要約 「私たちにはイエスがおられる」

2022年7月31日の説教要約
 「私たちにはイエスがおられる」  照内幸代牧師 
  《ヨハネの手紙一:2章1~11

 

 ヨハネはこの第一の手紙において、手紙を書いた目的を三つ、手紙の中ではっきり書き表しており、二つ目の目的が今日のところで出てきます。1節「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」。手紙を書いた目的が、もし私たちが罪を犯さないようになるためだと言うのなら、それはなんと難しいことだろうと思われるでしょう。そんなことは無理だ、と読んで思う私たちを、まるで見越しているかのように、ヨハネはこう続けます。「たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」。「たとえ罪を犯しても、私たちにはイエス・キリストがおられる!」なんと力強い励ましの言葉でしょうか。一方でそれでは、私たちには主イエス様がいらっしゃるから、罪の中に生きていても悔い改めさえすれば良いということなのでしょうか。そうではないということを、ヨハネはここで語っています。

 まずヨハネはこのように言います(4-5節)。神を知っている者は、神の言葉を守る者、神の戒めにしたがう者であるということです。神なるお方と出会ったら、人はその偉大さを目にして、その聖なるお方にひれ伏すものなのだということです。

 またヨハネはこうも言いますv6。神を知っているという者は、イエスが歩まれたように歩む者であるということです。それは一体、なぜでしょうか。3節にこうあります。神を知っているという者は、イエス様が歩まれたように歩む。なぜなら、イエス様が私たちの罪、いや私たちの罪に留まらず、全世界の罪のための宥めの備え物となってくださったことを知っているからだということです。今ある私の命は、私のものではない。生かされた命であるということを知っているからです。

 イエスが歩まれたように歩むとは、一体どんなことを言うのでしょうか。ヨハネはこう書いています(7-8節)。主イエス様が愛されたように、お互いを愛する。これが主イエス様によって与えられた新しい戒めです。イエス様の愛は、「互いに愛し合う」という以上の意味を持ちました。なぜならイエス様のお持ちになった愛は、神の愛、罪人を愛する愛だからです。その愛を持ってあなたがたは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とおっしゃるのです。そう言われたとき、私たちは思い起こすのです。他ならないこの私たちが、罪の中にいたときに、主イエス様に「友よ」と言っていただいたこと、罪人であったときに、主イエス様が私たちのところに来て、共に食事をし、「今日救いが来た」と言ってくださったことです。私たちは、それほど大きな愛を主イエス様からいただいたということに気付かされるのです。

 そんなにも大きな愛を受けた私たちは、もはやこの愛を知ったので、イエス様が歩まれたように歩むこと以外、できなくなってしまうのです(9-11節)。光の中に入れられた者は、もはや闇を歩くことはできない。もし闇の中にいるのなら、それはイエス様の愛を知らない者である。イエス様の愛を知った者は、兄弟をイエス様が私たちのことを愛されたように愛するのだとヨハネは言うのです。