2020年3月1日の説教要約 「あなたはどこにいるのか」

2020年3月1日の説教要約

                          「あなたはどこにいるのか」 中道由子牧師

 

                 ≪主なる神はアダムを呼ばれた、「どこにいるのか」。≫ 

                                                                 (創世記3章1~13節、21節)

 

1、偽りに従う誘惑

人を誘惑したのは、蛇でした。1節から「蛇」は主によって造られた被造物であることが分かります。

そして、この蛇が女に語りかけているところから、単なる普通の蛇ではないということを知ることができます。

ヨハネの黙示録12章9節を見ると、蛇はサタンの象徴です。

神様は、悪を創造されない。しかし、み使いを創造され、その中のあるみ使いたちは、「自分の領分を守らず」罪を犯した」と聖書に書かれています。

この蛇は、アダムではなくエバに近づいたのです。どのようにしてエバを誘惑したのでしょうか?

第一に、蛇は神のことばを歪めました。

蛇は女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と言います。

神様は「どの木からも」と言っておられません。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」(2章16、17節)。

第二に、蛇は神の言葉に疑いを挟むようにしました。新改訳では、「本当に神は言われたのですか。」と言って、女が神の言葉の真実を疑うように仕向けています。「神はどんな木からも食べてはならない、というような厳しすぎる命令はしないと思います」と蛇は言おうとしています。

すると、女は、「食べてはいけない、触れてもいけない。」と神様が言っていないことをさしはさみ、「死んではいけないから。」と答えました。彼女は神の言葉を軟弱にしました。神の言葉をを歪めるだけでなく、神の言葉に疑いをさしはさむようにしたのです。

第三に、蛇は神の言葉を否定しました。   

女が、「死ぬといけないから。」と言うと、蛇はすかさず「決して死ぬことはない。」と断言します。

なぜ女が騙されてしまったのでしょうか?エバが神の言葉を誤って使ったからです。

 第四に、蛇は神の愛と真実を疑わせました。

5節「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言って、神様の愛と真実を疑わせたのです。サタンは、人が神から自立して「完全な権威と自由」を持つことができるかのように錯覚させ、本当は、サタンの奴隷、罪の奴隷にしようとしたのです。

6節「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。」

その木がおいしそうに見えたでしょう。ここでは、女が誘惑にやられてしまっている、危険な状態です。こんなときこそ夫に相談しなければなりません。なぜなら、彼女はアダムの助け手であったから。

 でも次の節を見るとき、女は夫に相談もしないで食べてしまい、夫にそれを渡して、夫も食べたのです。ここでリーダーシップが逆転してしまっています。二人の間にも罪が入って来たからです。

 

2、罪の結果 

 エバは「一緒にいた男にも渡した」とあります。女は、「神のようになる」と言われて神から離れ、神から自立した存在になろうとしましたが、神から離れた結果は「孤独」でした。彼女は夫からも離れることを恐れ、その実を男に与えたのでした。女は罪の中で自分だけが孤独になるのを恐れて、連帯責任にしたわけです。一人で罪を犯すのは、怖いからです。

6節で「夫も食べた」と記されています。夫は女と一緒にいたのですから、彼女が行動する時これを止めることができたはずです。それなのに、彼は女を止めることをしなかったばかりか、自分も食べてしまったのです。「お前、間違っているよ、神様に話して謝ろう。」と注意するのが、夫の役目です。

 その結果、7節「二人の目が開けました」。蛇が言ったように「目が開かれた」のですが、「神のように」なったでしょうか?神様が持っていらした視点で見る、正しい見方を失ったのです。

 ヨハネ福音書9章でイエス様が生まれつきの盲人を癒した記事があります。彼は肉体の目だけでなく、霊の目も開かれました。本当に目が開かれるとは、このようなことです。

 アダムとエバが善悪の実を食べた結果、自分中心の見方をするようになったのです。

 彼らは自分たちが裸であることを知りました。神のようになったわけではなく、自分たちは裸であって、神から離れたら何のとりえもない者であることを知ったのです。

彼らは以前にも自分たちの裸の姿を見ていました。しかし2章25節「恥ずかしがりはしなかった」のです。罪を犯して神から離れた今、恥ずかしいと思うようになった。今までは、神に造られたものとしての自分を受け入れることができていました。自分が裸であっても、自分を喜ぶことができたのです。しかしここで、神との関りにゆがみが生じてしまうと、人は神から離れて自分自身の中に価値を見出さなければなりません。でも、人は神ではありませんから、自分の中に絶対的な価値を見出すことはできないのです。神から離れては何もできない弱い自分を知って、恥を感じるのです。

 そして、彼らはどうしたでしょうか?3章7節「いちじくの葉をつづり合わせ、腰をおおった」のです。自分の本当の姿を隠すためでした。いったい誰に対して自分を隠す必要があったのでしょうか?

 神に対してです。人は神の命令に逆らったので、神の前に自分のありのままの姿を認めることができせん。神の前にさえも取り繕って偽りの姿を差し出そうとしたのです。

 私たちも、自分を隠していることにも気がつかないことがあります。自分の期待する姿と本当の自分の姿のギャップに自分自身が耐えられないからです。

自分の罪を隠すのではなく、言い表すなら、赦しを受けることができます。

(1ヨハネ1章8、9節)。

 

3、神の憐れみ

 今日の中心聖句です。9節「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」

そよ風が吹く頃、人とその妻は主の声を聞きました。この声は決して怒鳴るように呼んだのではありませんでした。主は園を歩き回って人を探し、人に呼びかけられた。

その主の呼びかけに対して、主の御顔を避けて園の木の間に身を隠したのです。主の裁きを恐れたからです。罪を犯した人は主の御顔をまっすぐ見上げることができず、主の御顔を避けて逃げようとします。

 神は彼がどこにいるのか知っていました。「あなたはどこにいるのか」。神は罪に誘った女ではなく、まず男に語りかけられた。これは男が神の前にまず責任を取るべき存在だからです。

では、なぜ「どこにいるのか」と問われたのでしょうか?「わたしとあなたとの関係はどうなっていますか?」神様は何をしたかよりも彼らの状態、神の前におけるあり方を問題にされます。

聖書が語る罪とは、何をしたか以上に、神との関係における心の在り方をいつも問題にしています。

 男はそれを認めることができたでしょうか?

10節「あなたの声が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」と言いました。「はい!わたしはここにいます。」とは言えなかったのです。

「裸だから、恥ずかしくなりました。」と言い訳しています。自分のみじめな状態を神の前にさらすことを恐れている。悔い改めではなく、ただの弁解です。

 神様は11節で「誰が裸だと知らせたのか。取って食べてはならないと命じておいた木から取って食べたのか。」と問われました。神様は知っておられたのです。

そして、ここで初めて彼らがしたこと、行動として犯した罪を指摘し、悔い改めに導こうとしたのです。アダムは「ごめんなさい」と頭を下げることができましたか?

いいえ、出来ませんでした。しかも12節。この悲惨な罪の結果をもたらしたのは、妻のせいですと言っています。「あなたがわたしの傍に置かれたこの女が」と最終的には神様に罪の責任を転嫁しようとしました。

 次に、神様は女に「何ということをしたのか。」と言われた。この言葉の中に女が犯した罪がどんなに大きいものか、神様がその罪をどんなに悲しんでおられるかがわかります。

女の答えは、13節「蛇がだましたので、」と、悪いのは蛇であって、自分は被害者であると主張したのです。ここにも悔い改めは見られない。責任転嫁をしています。

 人はなぜ悔い改めないのでしょう?私たちには、プライドがあるのです。

神は、人が自分自身を回復するためにまず自分の罪を認め、その罪を悔い改めることを求めておられます。偽りのプライドにしがみついて罪を悔い改めない人は、かえって自分自身を失うのです。

 そんな人間に神様は救と憐みを与えています。

21節に書かれています。いちじくの葉の代わりに皮の衣を与えられた。皮はどこから来たのでしょうか?動物の皮です。いちじくの葉では腰だけを覆いました。この動物は全身を覆ったものでしょう。いちじくのように簡単に破損しない、動物の命がかかっているからです。

血を流した動物の命を持って、その恥が覆われました。やがて神はご自身の血を持って人間の罪を贖ってくださるのです。