2018年4月15日の説教要約 「まことの礼拝」

2018年4月15日の説教要約
「まことの礼拝」           村岡貞海牧師
ヨハネ福音書4章19-26節>

エスはサマリヤに必ず行かなければならないと言ってサマリヤに行きました。

1.自ら罪を悟ったサマリヤの女

サマリヤの女は、人々を避け熱くて痛い程の日差しが刺す真昼の時に水を得るために、水をくみに出ました。そこにイエス様が井戸のそばに座っておられ、その女性に話しかけられます。

永遠に渇くことのない生ける水を与えると言うので、「この井戸を作ってくれた私たちの先祖ヤコブよりも大きいですか。どうしてそんなことが出来ますか」といいます。
私たちは喉が渇いているとポッカリスエットを飲んだり、他の多くの飲料水をたくさん飲んだりもしますが、心の渇きが消えません。生ける水を飲むとき、心の渇きが解消されます。

エス様は、サマリアの女の飢え渇き、私たちの飢え渇きの本質を知っていました。私たちの罪が神様との関係を断ち切ったことを知っておられるからです。
私たちが罪を悔い改めなければ、神様からの生ける水を得るが出来ません。
私たちの罪のために、他の人を赦すことが出来ない事で、人を恨む事によって、神様とどんどん離れて行きます。神様に近付けずいつも心が飢え渇きます。
神様を知らずには、誰も本当の愛を受けることが出来ず、真の愛を行うことができません。神様をよく知らず、満たされない、不足している愛のために他のものを求めたり、依存しようとします。しかし、他のものでは満たされていないまま飢え渇くことになります。神様の下さる愛は、私たちが努力しても、得られるものはありません。神様が何の値いもなく、くださるのです。イエス様はその生ける水は私であると言うのです。
10節 イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

エス様はサマリヤの女が、神から離れ罪を犯していること、その本質を知りましたがそれを指摘なさらないのです。そのサマリヤの女が自ら悟るようにしてくださいます。彼女がそれに気がついた時、あなたの言葉が正しいと言われました。イエス様も喉の渇きと空腹と痛みと傷を一緒に受けていました。

実際にサマリヤの女の前にいるイエス様はのどが渇いて女に水をもらおうとします。イエス様は、永遠に渇くことのない生ける水をくださる方ですが、謙虚で柔和な方です。イエス様は人格的な方であるから すべてのことを知っておられますが、 サマリヤの女を配慮して悟らせてくださっています。
サマリヤの女は、直接イエス様を見て知って体験しながら驚いています。その人のために配慮して励まして生かすこと、それは神様がなさることであり、神様が喜ばれることです。サマリヤの女はイエスの思いやりと洞察力で自分の罪を悟りました。

2.礼拝についてたずねる女

とても驚いたサマリヤの女は、「あなたは預言者です」と言い、そして質問をします。それは礼拝についての質問です。
サマリヤの女は真の預言者は、私たち人間が神の前に罪人であることを知らせてくれて、神を礼拝する方法を教えてくれる。それが、預言者の役割であると知っていたからです。 サムエル、エリヤ。

だからサマリヤの女は、預言者であるイエス様に、自分の罪を悟るようにしてくださったイエス様に、どのように礼拝をささげなければいけないのかと尋ねたのです。
サマリヤの女は、「ユダヤ人はエルサレムの神殿でのみ礼拝をすべきだと言っていますが、私たちはそれを守ることができません。
私たちは、先祖の教えてくれたサマリヤの山で礼拝をささげていて、モーセ五書のみを信じて、祈っています」と話します。

正しい礼拝をする場所がエルサレムなら、私たちはそれをすることができない現実を語っています。

20-24節まで礼拝という言葉が10回出てきます。礼拝とは何でしょうか。神を信じて救われた人々の最大の特徴は、礼拝することです。 4章の重要なポイントは、真の礼拝であり、神が喜ばれる礼拝です。神様が形式を求めて、神様が特定の場所での礼拝を願うのでしょうか。
サマリヤの女の質問とイエスの答えをよくつないでみると
「この山でもエルサレムでも礼拝をささげることは問題ではない。礼拝をささげるには場所と方法と条件が問題ではなく、対象が問題だ。」という答えをしておられるのです。その答えは、23節によく現れています。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。」この会話の中で最も驚くべきこと、それは父と呼ばれる言葉です。

21節をもう一度みます。 「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」
 子供と父親の関係で最も重要なことは何でしょう。条件と形式ではありません。愛の関係です。
礼拝とは父を知って、父に対する適切な扱いをすることです。
エス様は、父が誰かを証して下さる為に来られた方です。
エス様が来られる前の人々は、神の言葉を聞かなければ大変な事が起こるから、恐ろしいから言う事を聞いているようなもので、神様を良く知らなかったのです。しかし、イエス様が来られたので、神様がどんな方であるかを知りました。
神が私たちの父となられることを、ここで父親というのは権威と物を満たしてくださる方で表現されていることよりも、むしろ愛があり、人格、品性があり、血縁関係の親密性のようなものが染み込んでいます。
その父なる神との関係は、イエス様によってのみ可能になることです。

3.霊とまことの礼拝。

真理とは人が努力して得る物ではないのです。神の言葉を意味します。
私たちの礼拝の対象は神様だけです。神を礼拝の対象に考えるときには、記憶すべきことは、神が霊であるということです。ヨハネ14:6−⒑

このように、神がどのような方であるかを確認するには福音書を見るのが一番確実です。イエス様がなさったことを見れば、その方が神様です。
 この世は彼を十字架につけてしまったが、イエス様は、私たちを愛しました。

彼の弟子たちを最後まで愛されたと聖書に記録されている方です。その方がまさに神様です。

私たちがまだ罪人であったとき、私たちのために十字架のその恥ずかしめられた死を果たした神様の愛と私たちに向けた御言葉を黙想し、記憶することが重要だと思います。
サマリヤの女は罪を悔い改めることによって、罪から取り放たれました。礼拝の場所に捕らわれずに、心と思いを尽くして、神様に仕えることができるという福音を聞きました。それはイエス・キリストとの出会いを通して行われました。
エス様は父にささげる霊と真の礼拝を教えてくださいます。
サマリヤの女はイエスをメシアとして確信するようになりました。
このようにして驚くべき福音が サマリアの地の一人の女性に伝えられ、全てのサマリア人に伝えられています。

その福音は今も霊とまことによってささげられる礼拝を通して、私たちにも伝えられています。