2018年4月8日の説教要約 「人生の再スタート」

○2018年4月8日の説教要約
『人生の再スタート』                    中道由子牧師

《イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは「私の子羊を飼いなさい」と言われた。》
ヨハネによる福音書21章15〜19節)

1、主の愛を知る −「わたしを愛するか」―
1〜14節で、大漁の奇跡がありました。15節は、その奇跡の後、食事が終わり、イエス様のペトロへの呼びかけから始まります。ペトロの信仰の原点の確認は、「名前」でした。本名は「シモン」ですが、信仰を持ってからペトロと命名されました。しかし、ここで三度も「ヨハネの子シモン」と元の名で呼ばれています。彼は、信仰告白の後、ペトロという名をもらったのです。しかし、主はここで、「ヨハネの子、シモン」と呼びかけ、「わたしを愛するか」と問いかけられる。「今のあなたはペトロではない、ヨハネの子シモンに逆戻りした。そこからやり直しなさい」と、どこから再スタートするべきかを主は示しておられます。
ペトロに現れてくださった復活の主が、弟子たちに大魚の奇跡を与え、朝食を用意して交わってくださったように、主イエスは、私たちにも手を差し伸べ、もう一度初めの愛に立たせてくださるお方であります。
次に、15節で「この人以上に」という言葉があります。なぜ主は、ほかの人のことを持ち出されたのでしょうか。イエス様が「あなたがたはみな、私に躓(つまず)く。」と予告された時も、ペトロは「たとえ、みなが躓いても、私は躓きません」(マルコ14:29)と傲慢で性急な言葉を出してしまいました。主は「ペトロのうぬぼれ」をほのめかす意図があったのでしょうか。ペトロは、ガリラヤ湖で主を見つけ、上着を羽織って、湖に飛び込みました。他の弟子たちは船に乗ったまま、魚の入っている網を引きながら帰ってきたのです。誰よりも早く、すぐに主の傍にペトロは行きたかったに違いありません。しかし、ここで主に「この人たち以上に私を愛しているか」と問われ、ペテロの返事はもはや自信満々ではありません。「主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と。以前ペトロは、「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13:37)と言ったのです。そして、「主を知らない」と三度も否定してしまう。ペトロがそういうであろうことも、そのことも主はご存知でありました。まさに詩編139:1,4にあるように「主はわたしを知り尽くされています。わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知っておられます。」私たちが言葉を口にする前に主はご存知です。
ここにきて、もうペトロは弟子のトップでも何でもない、パウロが言ったように「罪びとの中の最たるもの」(第一テモテ1:15)、自分こそそういう者だと分かったのです。自分が人生をかけ、命をかけて信じてきたお方をいとも簡単に否定してしまったのです。ペトロの心は真っ暗になりました。ペトロは自分の愛に挫折したのです。
ペトロはイエス様を頼っていたのではなく、ペトロが依存していたのは自分の信仰でした。自分の信仰は大丈夫と思っていると、自分の足元が崩れかけているのにわからない、ということがあるのではないでしょうか。
17節に主が3度尋ねられたことに気づいて、ペトロは悲しくなった。そして、「主よ、あなたは何もかもご存知です。」と。この何もかも、すべての中にペトロが、主を否んだ事実があります。ペトロの心に恐れが入ってきて、保身に走ったのです。ペトロは死ぬことなんか怖くないと言った。でも、実際は主を否定してしまったのです。恐れは、自分の意思と全く違う行動をとらせ、違う言葉を口から出させます。ペトロ自身も主を否定する自分の言葉に、自分はそんなはずではなかったと驚きを隠せなかったのではないでしょうか。
私たちもつい口に出てしまった保身の言葉、そんなことを言うつもりではなかったのにどうして口走ってしまったのか、と後になって後悔することがあるかもしれません。
自分の負の、マイナスの姿、人生の中でこれは隠しておきたい、そんな部分があるかもしれません。保身に走ったペテロと私たちとどこが違うでしょうか。
 けれども、主イエスは主を否定したペテロの言葉を追及されませんでした。「お前は私を否定したじゃないか。」とペトロを責める言葉を出されない。それどころか、ペトロに対して一言もこのことに触れていないのです。ペトロを二度と信用できない者とはされなかった。彼を赦しながら、もう一度新しく信仰を言い表す可能性を与えておられるのです。「愛は多くの罪をおおう」(第一ペテロ4:8)のであります。私たちの罪を自ら負って下さった主は、私たちにも同じように私たちの弱さを追求されません。
17節「私があなたを愛していることはあなたがすべてご存知です。」
このペトロの言葉の中に彼の悔い改めがあります。だめな自分をそのままかかえて、ペトロは主についていきました。
 
2、新しい使命 ―「私の羊を飼いなさい」−
 次にペトロに3度語られている言葉を見てみましょう。一度目は「わたしの小羊を養いなさい」。二度目、三度目が「わたしの羊を飼いなさい」です。
英語の聖書を見ますと、小羊はlambs、羊はsheepになっています。lambは複数に出来ますが、sheepは群れとしての扱いになるので何匹いても複数形を用いないのです。lambが個人的に一人一人を養うのに対して、sheepは、群れの牧者となることを意味しているのではないでしょうか。個人を牧することも、教会を牧することも両面とも大切な側面です。
第一ペトロ2:25でペトロは、召使たちへの勧めの中に「あなたがたは、羊のようにさまよっていたが、今は魂の牧者、監督のもとに戻ってきた。」と言っています。
羊は、目が弱い動物です。すぐに迷ってしまいます。「良き牧者である」主イエスの導きなしに私たちは魂の安息を得ることができないのです。ペトロ自身がそうであったからこそ、このように書いたのではないでしょうか。
そして、ペトロは、自分の受けた恵みから、召使い達に無慈悲な主人に仕える時も、イエス様を模範として仕えていくように励ましを与えています。これが、小羊(lamb)を牧する姿でありましょう。
また、第一ペトロ5:2〜5で、彼は長老たちに、「委ねられている神の羊の群れを牧しなさい。自ら進んで、卑しい利得のためではなく、献身的に、群れの模範になりなさい。」「大牧者であるイエスが見える時、主から栄冠をうける。」と勧めています。教会という群れを牧することの使命を語っているのです。その使命は、ペトロがガリラヤ湖で復活の主に「わたしの羊を飼いなさい」とお声をかけていただいた時から受けたものでありました。牧者として使命を託されたペトロは、神の羊を牧することを生涯忘れず、その使命を長老たちに託しているのです。
牧会者であり、カウンセラーである、トウルナイゼンは、牧会を「魂への配慮」と表現しました。言葉を換えると、慰め、励まし、生活の勧め、それらを教会全体で行うことです。教会に来て、自分が気にかけてもらっている、心配してもらっている、仕事のこと、健康のこと、家庭のこと、精神的なこと、そして何よりも霊的なこと、魂のこと、そこに気遣ってもらう、それが教会という場所です。もちろん、牧師はそのことをします。けれども、牧師が人々に気を配り、魂を配慮して、声をかけて、祈って、教会にやってくる人はそれを受けるだけでよいでしょうか。教会が全体として、慰めの共同体にならなければならないと思うのです。お互いがお互いのことを気にかける、心配する、特に罪が赦されるという問題について一番関心を持って関わることは大切なことです。
ここで「養う」という言葉は、英語で“take care ”という言葉です。文字通り「世話をする」ことです。皆さんが、身体の弱さを負っている方、心が弱っている方、問題を抱えている方々の話を聞き、励ましている姿を目にします。教会はそのようなところです。

3、真に主に従う道 ―「私に従って来なさい」−
 18節で、主は「よくよくあなたがたに言っておく。」「はっきりいっておく。」と言われました。“I am telling you the truth.”大切なことをこれから話すという表現です。
今まではこうであったが、これからはこのようになる、という生き方、あり方の変化を示そうとされました。若い時は漁師として働き、主と出会い、家族を置いて主に従った。犠牲を払った部分もあったと思いますが、一介の漁師だったペテロにとって、主に従う道は誇らしげな道であったに違いありません。
 しかし、歳を取ってからは、ほかの人に引っ張って行かれる、帯をしめられ、行きたくないところに連れて行かれる、というのです。ある神学者は、ここを「若い時には、自分の行きたいところに自由に行く。歳を取ると、行きたくないところに連れていかれざるを得ない」と表現しています。「帯を締められ、両手を伸ばし」とは、老人が、人の手を借りて世話をされているようにも取れます。
ここで、主はペトロの最期、死に方についてもほのめかしておられます。聖書はペトロの最期がどのようであったか語っていません。何人かのクリスチャンの作家は、ペトロはローマ皇帝ネロの時代に捕えられ、しかし彼は逆さ十字架につけてほしいと頼んで殉教したと記しています。主イエスと同じ様に死ぬには畏れ多いとした、ペトロの信仰ゆえと語り伝えられています。イエス様が語られたように、ペトロは彼の最期を通して神の栄光を現したのです。第一ペトロ4:12〜16でペトロはキリスト者として受ける苦しみを記しています。
「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びにあふれるためです。」
 ここまで話して、主はペトロに「わたしに従って来なさい。」と言われます。
最初に漁師として働いていたペトロをお召しになった時とは違う。これからペトロの人生にどのようなことが待っているかを語ったうえで「私に従ってきなさい。」と主は言われたのです。復活の主に会った今、すでにペトロは主の十字架を知っています。十字架がどのようなものか、命を捨てることがどのようなことか知っていました。そのうえで「わたしに従って来なさい。」と主は語られたのです。主はペトロに大切な任務を与え、あなたの罪はもう思い出さない、ここからスタートしなさい、と送り出してくださるのです。