2018年4月1日の説教要約 「イエスは甦られた」

○2018年4月1日の説教要約   『イエスは甦られた』     中道由子牧師
《わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる》      
(マタイによる福音書28章1〜10、16〜20節)


イースターおめでとうございます。
日本では、イースターが、イエス・キリストが甦った日という認識がありません。それは、教会が伝える責任が与えられていると思います。今日はマタイによる福音書の最後の箇所から、主が蘇られた事実がどのように伝わっていったか、見ていきたいと思います。

1、み使いから女たちへ

 マタイによる福音書では、1章のイエス・キリスト誕生にあたり、悩んでいる父となるヨセフに夢の中でみ使いが現れます。「ダビデの子、ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである。」と告げました。
そして、日曜日の朝、主が復活された朝、み使いが遣わされ、墓の石を動かし、復活の事実を伝えます。マタイによる福音書はみ使いが初めと終わりに登場してきます。
イエス・キリストの誕生、処女降誕というのは本当に人間が信じにくいことであり、聖霊によらなければ、理屈では信じられないことです。復活も同じです。十字架で死んだイエスが甦った、と誰が信じるでしょうか。しかし、パウロはこう言っています。

コリント信徒への手紙一15章:17〜19節
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」

 神様は超自然的で、人間が信じにくく、しかし大事なことを伝えるときにみ使いを用いられました。そして、み使いがその墓の石を動かしたのであります。
13節でこの主の甦りに対して祭司長たちは兵士たちに、「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」とお金を渡して、嘘の報告をさせたのです。
しかし、考えてみてください。番兵が寝ている間に弟子たちが重い墓の石を動かそうとしたら、重いし、そっと出来ることではありません。当然騒ぎになって番兵は目を覚ますでしょう。

2、3節によると、み使いはその石の上に座った。その姿は稲妻のように輝いて、衣は雪のように白かった、とあります。番兵たちの恐ろしさのあまり震え上がった、「死人のようになった」というのは、声もだせないほど、身動きもできないほどであったのです。
 そこにいたのは、マグダラのマリアともうひとりのマリアでした。主が十字架で息を引き取った後も彼女たちはいました。マグダラのマリア小ヤコブとヨセの母マリアでした。
27章61節「マグダラのマリアともうひとりのマリアとは、そこに残り、墓の方を向いて座っていた。」とあります。主がお亡くなりになった。しかし、彼女たちの主を慕う思いは変わらず、離れることが出来なかったのです。安息日のため家に戻り、安息日が終わって、週の初めの日(日曜日)の明け方にもう一度墓を見に来ていました。
そこにみ使いが現れました。み使いは、彼女たちに大切なミッション、使命を与えます。ちょっと想像してみてください。番兵たちは、怖がって死人のようになっている。そのみ使いは、彼女たちにまず、「恐れることはない。」と伝えます。そして、復活の事実を明確に伝えていきます。

① 「イエスはここにはおられない。予(かね)てから復活された。遺体の置いてある場所を見なさい。」
ルカ24章8節では「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」とあります。
エス様の「三日目に死人のうちから甦る」という預言の言葉を思い出したのです。
② 「急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい。」
8節『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』
復活の事実と主が待っておられる場所まで告げたのです。
ユダヤでは女と羊飼いは嘘つき、と見なされていました。しかし、神様はイエス様の誕生の時も、み使いを羊飼いに送りイエス様の誕生を知らせました。そして、復活の事実もみ使いを通して、女たちに知らせたのです。
エス様は本当にマグダラのマリアともうひとりのマリアを信頼しておられました。彼女たちが急いで弟子たちに知らせに行こうとすると、イエス様が立っていて彼女たちに「おはよう」と言われたのです。
ヘブル語ではよく「シャローム」(平安があるように)が使われます。ここでは、ギリシャ語の「カイレーテ」という言葉で、シャロームを含む、一般的な挨拶です。英語訳では“Rejoice!”(喜べ)が使われています。
「やあ、おはよう」と挨拶なさったのです。彼女たちは主と会えた嬉しさに、イエスの足を抱き、ひれ伏した、とあります。しかし、主はまず彼女たちに大切な使命を果たすように言われます。主は弱い者に、人から信用されないものに大切な使命を託されます。
皆さんに託されている使命は何でしょうか?行って、その使命を果たすように一人一人に託されているものがあります。

2、女たちから弟子たちへ

10節で主が女たちに「私の弟子たちにガリラヤに行くように知らせなさい。」主を裏切った弟子たちを「わたしの弟子たち」と呼ばれたのです。弟子たちは女たちが知らせたことを信じたでしょうか?

ルカ24章11節「弟子たちには、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と書かれています。女性の言うことだから信じなかったのでしょうか?それとも、主が十字架で死んでしまったショックで信じる心を失ったのでしょうか?彼らは信じられなかったのです。その中でもペトロは走って墓まで行きました。
 ルカ24章「しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。」
亜麻布は抜け殻だった。抜け殻と言うのは、すっと中身だけ消えていった殻がそこにあるということです。包帯を少しずつ解いた形ではありません。
ヨハネ20章7節「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」イエス様の体が寝かされていたので、頭を包んでいた覆いは亜麻布と離れた所にあったのです。ペトロは自分の目でその事実を見たのです。確かめたのです。ヨハネによる福音書ではもう一人の弟子、ヨハネもこの事実を見たのです。
ただそれでもヨハネによる福音書ではこのように書かれています。
ヨハネ20章9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」
それでも復活の約束を理解できなかったのです。この復活は彼らにとっては想像も成しえなかったことだったのでしょう。しかし、主はこの弟子たちを大きく用いるご計画を持っておられました。
私たちは絶望の中にあるかもしれません。まだ光が見えてこないその時に、主はすでに私たちのために備えて下さり、ご自身のご計画を持っておられます。ただ失望したままでは主の働きは出来ません。主は、この弟子たちを一から立て直すためにガリラヤに行き、彼らを待っておられたのです。

3、弟子たちから全世界へ

故郷ガリラヤに戻る時、弟子たちは受難週の間の思いがけない出来事の連続に疲れ果て、イエス様の死に打ち負かされていたかもしれません。先生は先に行ってしまった。これから自分たちはどうなるのか。もう一度元の漁師をしていくしかない、そんな思いで郷里に帰っていたことでしょう。
そんな彼らを迎えるために主は先回りをして、故郷で待っていてくださったのです。イエス様の生活の場は、ナザレ、ガリラヤでした。甦られた主が弟子たちをガリラヤに再び送り返したことは、彼らの生活の場であるそこから彼らを地の果ての証人として立て上げるためであります。このような意味で、私たちは皆ガリラヤ人にならなくてはなりません。私が今、両足で踏んでいる生活の現場が地の果て、全世界に至る出発点なのであります。

そこから弟子たちの使徒としての働きの幕が上げられます。
 18節「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と言われました。どのようにして弟子にするのかと言えば、
「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」洗礼を授けて、聖餐の恵みに預からせて弟子とするのです。
自分の力でしなければならないとしたら、とても出来ません。しかし、ここに主の約束があります。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これが主の約束です。マタイ福音書1章に書かれているイエス様の誕生の記事で
「インマヌエル」(神は我々と共におられる)の約束は、
復活された主が弟子たちを派遣される時も「世の終わりまで、いつも共におる」と永遠に変わらないのであります。