2022年9月18日の説教要約 「互いに愛し合いなさい」

2022年9月18日の説教要約
「互いに愛し合いなさい」  中道由子牧師 
《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

                  (ヨハネによる福音書13章34~35節

 

1. 極限までの愛

 ヨハネによる福音書の2章から12章までは、この世に対して主がご自身を現わされています。世の人々に多くの教えを語られ、神の子として数多くのしるしを行っても人々は、ついにこのキリストを信じませんでした。

ですから、主はこの世から身を隠され、十字架にかかられるまでの4日間を愛する弟子たちとだけで過ごされます。

13章から17章は、主が弟子たちにご自身を現わし、親しく語っておられます。

「互いに愛し合いなさい」という御言葉は、そんな背景の中で主が語られたのでした。

過越祭の日が翌日に迫りました。ゴルゴダで十字架にかかって死ぬという使命を持った主が、弟子たちとの別れの最後の食事をどんなに待ち望んでおられたでしょうか。

しかし、悲しいことに弟子たちの誰一人、主の十字架を悟っていた者はいませんでした。

13章の前半に書かれている「洗足の教え」は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書にはない、ヨハネによる福音書にだけ出て来る内容です。

主は夕食の時、しかも最後の晩餐となるのに、急に弟子たちの足を洗い始められました。

なぜでしょう?

ルカによる福音書にはその理由が書かれています。まさに、主の晩餐の直後でした。

ルカによる福音書22章24節「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」

その晩餐の席上で、誰が一番偉いかと言う議論が起きたからです。 

主は互いに仕える者となれと諭されるのです。

主は全人類の罪、彼ら弟子たちの罪を負って今まさに神の罰を受けようとされていました。それなのに、弟子たちはここにいたっても、主の御心を悟らず、誰が一番偉いかと言い合っている。

それで、主は食事中にもかかわらず、神の真のしもべとはいかにあるべきかを示されるために、立ち上がって弟子たちの足を洗われたのです。

それは誰がすることでしょうか?

弟子たちがまず主の足を洗って差し上げることでしょう。

12章1節でべタニヤでマリヤは純粋で高価なナルドの香油を持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった、とあります。イスカリオテのユダは「なぜ、この香油を売って、貧しい人に施さなかったか」と言って、彼女を責めたのです。

エス様は、「彼女は私の葬りのためにしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。」と、ご自分の最後の時、十字架の死が近いこと、そのためにマリヤがしてくれたことを感謝してお受けになられました。

しかし、どうでしょう?弟子たちは13章で最後の晩餐の時、主の洗足の教えの意味はまだわかっていないのです。主イエスが十字架にかけられ、葬られ復活して天に帰られてから、彼らに聖霊を注がれます。その時この意味が初めて分かるのです。

洗足の教えはただの教えではなく、私たちの実生活のただ中で主が仕えてくださったように、仕え合うことです。

 

2.新しい掟

 主イエス様は、イスカリオテのユダが主の敵対者のもとに通報しに出て行くのを見届けると、いよいよ栄光を受けるその時がきたことを残りの弟子たちに告げられました。

その最後の時、主は彼らに新しい戒め、掟を彼らに与えられます。

それが、34節のお言葉です。愛し合う共同体として生きるように説かれたのです。

互いに愛し合う、他者を愛するためにはまず自分を愛さなければならないのです。

自分自身を愛することを知らない者が、どうして他者を愛することができるでしょうか?

正しい意味において自分自身を愛するとは、自分自身のありのままの姿を受け入れるということです。私たちは自分自身の弱さや失敗が赦せなくて苦しみます。

私たちが罪人であった時、主イエスはご自分の命を私たちのために捨ててくださるほど愛してくださった。互いに愛するというイエス様の戒めが私たちの現実となるためには、この主の愛に学ぶほかありません。

第二番目に この愛はこの世の人々が互いに愛し合うような愛ではなく、キリストが弟子たちを愛してくださった「聖なる愛」に根差しているからです。

エス様はご自身の愛を実践をもって示されました。そのお手本が「洗足の教え」でした。

他者の弱いところ、汚れているところをきれいにしようとする行為、これはできるようでなかなかできないものです。しかし、人が見ていないところでそっと誰にも知られずその行為をすることは神様がご存じです。

 自分を愛すること、人を愛することは簡単ではありませんが、イエス様は世にある私たち、教会が一つになるようにこの言葉をかけておられます。

そして最後に、イエス様は弟子たちに35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と書かれています。

私たちが互いに愛し合うことは、教会が愛の共同体として自らイエスの弟子であることをこの世が認めるしるしだということです。

エス様が言われる愛は互いに依存している愛でもなければ、気の合った仲間同士の愛でもありません。皆それぞれ違います。でも互いに愛し合うというのは、その違いを受け入れ、理解してあげることではないでしょうか?

聖い主がここにおられ、この聖い交わりの中に温かみがあることを教会の外の人が認め、主の御名を崇める時、私たちは主の弟子とならせていただいているのです。