2022年6月5日の説教要約 「あふれる泉を与えるお方」

2022年6月5日の説教要約

          「あふれる泉を与えるお方」  中道由子牧師

                        ヨハネによる福音書4章6~14節

 

今日はペンテコステ礼拝です。聖霊を水として例えている本日の箇所から学びます。

 

1.人生の渇き

 イエスユダヤからガリラヤ地方に行くには、「サマリアを通らねばならなかった」のです。これは、異例なことでした。

それは、ユダヤ人はサマリア人と交際しないからでした。

 紀元前722年北王国イスラエルとその首都サマリアが滅亡した時に、北王国を征服したアッシリア帝国が、占領政策としてイスラエルに他国人を入れて植民地化し、雑婚により混血児が生まれました。

血統的に純粋なユダヤ人は彼らをエルサレム神殿に受け入れなかったのです。

 イエス様がユダヤを去り、サマリアのスカルの町の井戸に着いたのは昼の12時頃で、一人のサマリアの女が水を汲みにやってきました。

ここからイエス様の女との会話が始まります。

エス様の個人的な内容にまで心を開かせる、引き出す会話がここで見られます。

エス様は、この女に「水を飲ませください。」と水を求めます。

男の人が見知らぬ女に声をかけるのは尋常なことではない、ましてやイエス様はユダヤ人で、女はサマリア人です。

エス様は水をくださいと言いながら、私は実は生きた水を持っているとおっしゃる。

彼女は生きた水と言われて、普通の湧き水のようなものを想像しているのです。

エス様は、このヤコブの井戸とイエス様の生きる水とを区別されます。

14節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

女は、15節で「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください。」と言います。

人目をはばかって暑い日中に水汲みに来ていた女にとっては、そんな水源があればほしい、とその話に飛びついたのです。

エス様が言われた水は肉体的な必要の水ではなく、魂の、私たちの心が必要としている霊的な命の水でした。

「その水をください」と言った女にイエス様は、彼女の個人的な暗い部分に触れていきます。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と。

彼女は何度も結婚と離婚を繰り返し、現在一緒に生活している男とも正式に結婚していないという素性の持ち主でした。

17節「わたしには夫はいません」という女に、「そのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」と女の素性を当ててしまわれました。

普通の身持ちの女性ではなかった、そして彼女は決して幸せではありませんでした。

八方ふさがりのこの女性の人生に、イエス様は神の賜物を知るようにと促しておられる。

私たちも自分の人生を神の賜物として見たことがあるでしょうか?

     

2.生ける水

 人間にとって「水」は欠かせないものです。人間の体の50~75パーセントは水でできているそうです。この水を一滴も取らなければ、4~5日で命を落としてしまうことがあるそうです。人間にとってどれだけ水が大切なのかよくわかります。

イエス・キリストが十字架の上で亡くなられた時、このように書かれています。

ヨハネによる福音書19章34節「しかし、兵士の一人が槍でイエスの脇腹を刺した。すると、すぐに血と水とが流れ出た。」

 イエス様の体から血と水が流れた。これは、神が人として受肉された証拠でもあります。この福音書を書いたとされているヨハネは、ヨハネの手紙一5章6節においてこう書いています。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。」

 ヨハネは自分の目で、イエス様の体から血と水が流れたのを見たのです。

それは、イエス様が私たちと同じ人間の体を持っておられた。私たちの弱さを理解できるお方であり、文字通り体を刺されて殺された、という事実であります。

 ここで、サマリアの女に「渇くことがない水をあげよう」とおっしゃった主イエス様は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と言われました。

どんなに水を飲んでもまた、渇きます。そうして、私たちは体の水を気遣うのですが、私たちの心にも潤いが必要であることは、現代のストレス社会の中でよくわかります。

エス様はそれをあげよう、しかもこの水は生きていて、イエス様を信じた者からあふれ流れると言われるのです。

 世の人々は、頭がいい人、才能がある人、面白い人、機転が利く人のところに行ってあの人と交わるといい、と言います。

しかし、教会では違います。私たちの内側には、聖霊なる神様がお住みになっておられて、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5章23節)の御霊の実を結ばせてくださる。だから、性格は違っても、年齢は違っても、能力や賜物が違っても、どの人からも同じ聖霊様が流れ出て、同じ聖霊様の流れが一人一人を豊かにし、その交わりは豊かに祝される。

教会とは、そのような所なのです。

 

3.礼拝者となる

 16節からこのサマリアの女は自分の結婚生活や夫のこと、自分の罪の姿を浮き彫りにされて、19節「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」と確信します。

彼女の心は真の神と礼拝の場所に向けられていきました。

20節「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」と。

古くから礼拝の場所をめぐってユダヤ人とサマリア人は論争し、対立してきました。

この宗教論争に対して、このお方なら真の解決を持っておられるかもしれない、という期待があったのでしょう。

エス様は、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である。」と言われました。

主イエス様から生きた水、聖霊をもらった人は神を礼拝する者となる、真の礼拝者と変えられていきます。