2022年6月12日の説教要約 「息を吹きかけられたイエス」

2022年6月12日の説教要約

                「息を吹きかけられたイエス」  中道善次牧師

                                         《ヨハネによる福音書 20章22節

 

旧約聖書では、聖霊という言葉は三カ所にだけ出てきます。

それはヘブライ語では、ルアッハ・ハ・カドーシュと言います。カドーシュは「聖」であります。

詩篇51編13節、イザヤ書63:10と11であります。

ルアッハだけですと、霊だけでなく、三つの訳が考えられます。風、息、霊であります。

これに「聖い」というカドーシュが付くと聖霊になります。

聖書を翻訳する人は、これが霊なのか、風なのか、息なのかを考えるのです。

そして霊の場合、人間の霊なのか、汚れた霊なのか、神の霊なのかを考えるのであります。

私たちの人間の霊、そして神の霊である聖霊が、私たちとどのように関わりを持っておられるかを学びたいと思います。

 

1.生かされている私たち

旧約聖書の1ページ、神が天と地を創造された箇所に、聖霊なる神が登場します。

創 1:1 初めに神は天地を創造された。

創 1:2 地は混沌であった、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

ここから私たちは、聖霊なる神が、天地の創造に関わっておられたことがわかります。

そして、創世記2章では、「霊」が、人間の創造に深く関わっていることが記されています。

創 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

息を吹き込んだというところのヘブライ語は、ルアッハではなく、ネシャマーです。

第三ポイントで取り上げます、今日の聖書箇所「イエスが息を吹きかけて」と同じ言葉であります。

ネシャマーの意味は、気息(きそく)、呼吸であります。

ここから分かりますことは、人間には「霊」があることです。

私たちが信じる根拠としているのは聖書です。聖書は、人間に霊、神が人に吹き込んだ息があり、それが取り去られる時、人は死ぬとはっきり告げます。

ヨブ 34:14~15 もし神がご自分にのみ御心を留め その霊と息吹を(ルアッハ)を御自分に集められるなら 生きとし生ける者は直ちに息絶え 人は塵に帰るだろう。

土の塵で人間が造られたという考えが前提にあるで、霊が取り去られると、人は土の塊になる。

詩 104:29~30やコヘレト 12:7にも同様のことが記されています。

私たちの内には、神が人間に吹き込まれた命の息、霊があるのです

一般にも、私たちは自分で生きているのではなく、生かされているのだと表現します。

そしてそれはまさに、聖書が私たちに告げていることなのです。

私たちは神によって生かされている。神の命の息が、イエスを信じている人であっても、まだそうでない人であっても、吹き込まれているのです。霊が人の心の奥底にあるというのは、そういうことであります。ですから、私たちは、神によって造られ、生かされているのです。

生かされていることを自覚している人は、自分を造られた方のために生きるのです。

 

2.霊の風が吹く

次に開いていただきたい聖書の箇所は、ヨハネ3章8節であります。

ヨハ 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

これはニコデモという、地位の高い、学齢のある人とイエスが対話された時の言葉です。

新しく生まれることを理解できないニコデモに対して、イエスは、風のたとえをされました。

風は目に見えない。でも確かに風が吹いたことはわかる。木が揺れる。肌に触れるからです。しかし風をコントロールすることはできない。霊とは、風のようなものだとイエスは言うのです。

渡辺善太という日本を代表する説教者は、この聖霊の働きは「つかまえどころがない」と言われるのです。そしてまたこう言われるのです。人が神を信じる、救われるというのは、人間が教えたからどうなるものでもない。それこそ「ただただ聖霊」による。聖霊の風が吹くということである。

逆の言い方をすれば、「私は決してキリスト教を信じません」という人の決心さえも、大したことがない。聖霊の風が吹くと人は変わってしまうのです。

聖霊は、自分でも気がつかないような時に、そよ風のように吹いくださるのです。

 

3.聖霊がおられる自覚を持つ

ヨハ 20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

聖霊の吹き方には、激しい風のように吹く場合と、よそ風のように吹く場合があります。

その激しい聖霊の注ぎ、そして現象が、ルカが書きました使徒言行録に載っております。

使徒 2:2~4では、誰にでも分かる聖霊の注ぎの現象が起こりました。音や「しるし」があったのです。これをルカのペンテコステと呼びます。

それに対して、ヨハネ20:22は、イエスの息の吹きかけです。これをヨハネペンテコステと言うのです。これは単なる象徴行為ではありません。

エスが「息を吹きかけた」というギリシャ語は、新約聖書では、この箇所でしか使われていません。

旧約聖書70人訳で、「息を吹きかけた」という同じ言葉、同じギリシャ語が使われている箇所があります。それが、創世記2:7です。

ここでイエスは、息を吹き込まれたのです。神の霊が、聖霊が弟子たちに吹き込まれたのです。

私たちが聞き取りたいメッセージがあります。それは、聖霊がおられる自覚を持つことであります。

 

4.聖書は神の息吹

聖霊がおられる自覚を持つ」「あなたに聖霊の風が吹いた」と言われても、私にはピンとこない。そのような人がいるでしょう。逆に、聖霊を感じることに傾きすぎてしまう。

聖霊がまだピンと来ない人にとっても、聖霊に対する感性が強い人にとっても、神の息吹を感じる、イエスの息吹を感じる大切なことを申し上げます。

それがテモテへの手紙2 3:16です。

テモ2 3:16 聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です。

霊感とあるのは、ギリシャ語に基づいて訳すと、「神の息の吹き出し」であります。

新改訳2017では、「神の息吹による」とあります。

エスが弟子たちに息を吹きかけられたのと同じように、聖書を読む時、私たちは、神様の息吹を、聖霊の息が吹き込まれるのを感じるのです。

大切なことは、聖書の御言葉を通して聖霊があなたに働かれるのです。語りかけられるのです。力を与え、慰めを与え、正しく導かれるのです。

聖霊は、つかまえどころがないと申しました。

しかしそのつかまえどころのない聖霊の働きをいちばん的確に捉えることが出来るのが聖書であります。あなたが読まれる聖書を通して、聖霊の風が吹いて下さることを祈ります。