2020年4月12日 イースター説教 「見通しは明るい」

2020年4月12日 イースター説教

                                            「見通しは明るい」  中道善次牧師

                                                                                      <マルコ16章>

 

イースターおめでとうございます。

録音によって礼拝を守る3週目でございますが、みなさまと一緒に礼拝が出来る恵みを感謝します。

マルコ福音書を学んでまいりました。今日はイースターに合わせて、マルコ福音書の最後の16章1~8節を学びます。

アウトラインは、① 恐ろしかった、 ② 見通しは明るい

 

 

① 恐ろしかった

マルコ福音書16章をご覧いただくと、口語訳聖書では8節と9節の間に1行あいております。

マコ 16:8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

マコ 16:9 〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。

そのあとの9~20節までは、亀甲型の括弧がついております。これはオリジナルのマルコにはなかった文章で、後代の付加であると言われております。

新改訳聖書では、*(こめ)しるしを付けて、付加された文章である事を記しています。新共同訳聖書でも同じ扱いです。

ここからわかることは、オリジナルのマルコ福音書は、次の言葉で終わっているのです。

マコ 16:8 女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。

「逃げた」「恐れた」「人には何も言わなかった」。これでピリオドであります。

空の墓を見た。そのことは、驚きであり、恐怖であり、また信じられない出来事であった。天使たちは、このことを人々に伝えるようにと言われたのに、女性たちは何も伝えなかったとあります。

マルコはこの正直な女性たちの反応をここに書く事で、まさに信じられないような出来事が起こったことの証拠としたのです。

マルコは、人々を信じさせるような技巧をここで使っておりません。

例えば次のような文章で福音書を締めくくることも出来たでしょう。

「弟子たちは、預言されていた通りのことが起こって、喜んで信じた。そして人々に福音を伝えた」と。

マルコは、そのような書き方をしていないのです。

復活などとても信じられない、驚きで、恐れでいっぱいで、不信仰の反応をしたことで終わらせている。

しかしそこにこそ真実があるとマルコは確信したのです。

女性たちの最初の反応。それは不信仰、恐れ、疑い、です。これらは、信じられないことが起こったことの証言です。それをそのまま書くことによって、復活の事実を際立たせる効果があるのです。

しかしいつまでも、恐れたままであった、あるいは、黙っていたのではありませんでした。またあってはなりません。彼らはやがて信じたのです。復活の事実を。

すると今度は「それからどうなったの?」という物語が必要になったのです。

それで紀元100年頃、つまりオリジナルマルコが出来てから約40年後、長老アリスティオンという人が、マタイ、ルカ、ヨハネ使徒行伝などを参考にして、9~20節を書き加えたというのです。

付加の文章とされている9~20節を見てまいりたいと思います。

復活は私たちの常識を超えた出来事です。そして復活を信じる者には、私たちの意識を変える出来事が起こる。それをメッセージとして聞き取りたいのです。

11節、13節、14節をご覧ください。

マコ 16:11 彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。

マコ 16:13 このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。

マコ 16:14 その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

それぞれのエピソードは、ヨハネやルカに載っています。その記事の要点は、「信じなかった」という言葉です。復活などとても信じられない。それが弟子たちの意識であったのです。

そのような彼らに対して、復活を信じるなら、15~18節で記されている事が起こると語るのです。

マコ 16:15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。

マコ 16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。

マコ 16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、

マコ 16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

そこには7つのことが書かれているのです。

a.全世界に出ていってすべての造られたものに福音を宣べ伝える

b.信じてバプテスマを受けるものは救われる

c.イエスの御名で悪霊を追い出す

d.新しい言葉を語る

e.へびをつかむ

f.毒を飲んでも害を受けない

g.病人に手をおけば癒される

私たちはここに書いてあることが全て、使徒行伝の中で起こっている事を知っております。

復活の主に出会い、聖霊を受けた弟子たちが、宣教に出かけていったのです。その働きの中で、悪霊を追い出し、癒しや奇跡を行ったのです。

私たちはこれらの不思議や奇跡を、昔に起こった物語として受け止めてはならないのです。

今の私たちにも、イエスの復活を信じたらこれらのことが起こるのです。

それを信じて受け止めたいのです。

 

② 見通しは明るい

次にご覧いただきたいのは、3~4節です。

マコ 16:3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。

マコ 16:4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。

あの大きい石をどうしよう。

女性たちは、うつむいて語っていたのでしょう。彼女たちの気持ちも、イエス様がお亡くなりになって、ご遺体に香料を塗るという事しか出来ない。暗い気持ちであったのです。

ところが目を上げてみると、石はすでに転がしてあった。

毎年、イースターごとに思い出します力強いメッセージがあります。

それは何人かの名説教家と言われる先生方が語っておられるメッセージであります。

エス様の復活を信じる者は、見通し明るく生きて行くことが出来るのです。

私たちは、どのような人生の見通し、将来の見通しを持っているでしょうか。

明るい希望を持っているでしょうか。

今の日本、そして世界は、コロナウイルスの感染が拡大しています。

日本では、緊急事態宣言がなされました。

ビジネスをしている方にとっても、学校に行っている方にとっても、一体どうなってゆくのだろう。お先真っ暗というのが、今の私たちが抱く感覚です。

しかしそのような時だからこそ、この復活日の説教として受け取っていただきたいのは「見通しは明るい」というメッセージです。

感染症のために、何をやってもダメだ。そのような見通ししかないとしたなら、イエス様が貴方の為に復活して下さったと言う事が、知識としてはあっても、実際の生活の中で生かされていないのです。

私達の日々の営みに関しても、必ず神様が祝福して下さる。この感染症にも終わりが来る。明るい見通しが待っている。そのように信じることが、実際的な、「復活信仰」であります。

旧約聖書の中に二人の預言者が出て来ます。それはエレミヤとエゼキエルです。

この二人の預言者は、いずれも国や国民の置かれた厳しい状況の中で翻弄された人々でした。彼らは厳しい現実を良く認識しておりました。しかし厳しい現実を超えたところにある、明るい将来の見通しを語ったのです。

エレミヤは、自分たちの国がもうすぐ滅びる。そしてバビロンという国に連れて行かれる。そのような預言を語ったのです。彼は、同じ国の人々から、希望を持たせない否定的な預言者だと非難されたのです。

しかしエレミヤは、バビロンという国に連れて行かれた人々に対して、将来の希望と平安のメッセージを語るのです。

エレ 29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

エレミヤの言葉は、将来の希望が預言されているからです。

エレミヤは語りました。あなたがたの為に神様が立てておられる計画は、災いを与えようとするものではなく、将来と希望と平安を与えるものである。

もう一人の預言者エゼキエルは、バビロンという国に連れて行かれた人です。捕囚民として生きた人です。彼らが生きていた厳しい現実は、まるで墓場の中にいるようだ。

エゼキエルは、墓場の中で預言しました。

それは、墓場のような中にいる人々への希望のメッセージであります。

エゼ 37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

エゼ 37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

エゼ 37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。

3節のエゼキエルの答、「主なる神よ、あなたがご存知です」には、二つの意味があります。

第一は、人間的には「不可能です」という死に対する無力と絶望を表すのです。

第二に、神様を信頼する観点で言うなら、人間の限界を超えた神の力があれば不可能ではありませんという意味が含まれています。

普通は無理です。これがエゼキエルの答えであり、一般の人々の答えでした。

「枯れた骨」とは、望みのないユダの人々の心の状態を指す言葉でもあったからです。

バビロンに捕囚されても、ユダの人々は、しばらくは希望をもっていたのです。大丈夫、神様は数年のうちに回復されるから。ところが事態はどんどん悪くなっていったのです。エルサレムの町が破壊され、神殿が破壊され、そして時が過ぎていったのです。

もう無理だ。彼らの中の気力が失われていったのです。枯れた骨のように、希望さえも枯れていったのです。

ですから「あなたがご存じです」というのは、神様、この状態を見て無理なことはおわかりでしょう。

そのような気持ちがあったのです。しかしエゼキエルは、あなたなら不可能を可能にすることが出来るのです。そのような気持ちを込めて、「あなたがご存じです」と言ったのです。

そして、不可能を可能にする神の奇跡がおこったのです。それが枯れた骨が生き返り、大きな群衆になったのです。

エゼ 37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。

この奇跡は、イエス様が死から復活されることを示唆するものであります。

エスが、死から甦った。それを私たちは信じています。そして神が奇跡を今でも行うことを信じています。

しかしながら私たちの現実の中で、お先真っ暗、見通しは明るくない。そのようなことがあります。

今私たちが置かれている感染症の拡大という状態がまさにそうであります。

そして、見通しは明るくないと、私たちは口にするのであります。

厳しい現状を見て見ぬ振りをしたらいいと言っているのではないのです。預言者たちも厳しい現実を見ながら、希望を語ったのです。

私たちは信じることを諦めてはいけない。祈ることを諦めてはいけない。明るい見通しを持つことを諦めてはいけないのです。

以前にも語ったことがあります。それは一緒に働いていた宣教師から教えられたことです。

ある方が末期の癌で、治療を受けておられました。その方はクリスチャンです。天国の望みをしっかりと持っておられました。だから静かにその置かれた病状を受け入れる事で十分だと言えます。

ところがその宣教師は、強く癒やしを信じて祈ったのです。

わたしは、その狭間におりました。そして次のような心配をしました。彼がいたずらに人々の心をかき回すことがないように。彼に注意するように指導して下さいとも言われました。

しかし闘病している兄弟の奥様は、彼の祈りに感謝しておられたのです。

それは、たとえ医学的な現実が不可能であっても、聖書を信じている人間が本気で最後まで癒やしを信じて祈る。諦めないで祈ってくれたその一途な姿に感謝されたのです。

わたしはその時、深く教えられたのです。一人ぐらい、最後の最後まで、本気で神の力を信じて祈る者がいていいのだ。

諦めてしまうような状況の中で、見通しは明るい。

諦めの気持ちを、私たちの心の中から取り除き、神がその気になれば、どんなことでも出来る。

そう信じて祈る。それがイエスの復活を信じる者が受けとめるメッセージであります。

お祈りしましょう。