2019年7月21日の説教要約
「語り継がれた福音」 中道善次牧師
<マルコ福音書1章>
今日は、マルコの福音書から語りたいと思います。
① ペトロの霊の子マルコ
マルコによる福音書の「マルコ」は、初代教会の家の教会の持ち主マリヤの息子で、将来を期待されたエリートでした。
マルコは、福音書の中で「水瓶を運ぶ男」として自分を登場させています。
マコ 14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。」
彼が案内した二階の広間とは、最後の晩餐が持たれた二階座敷でした。
マルコの母マリヤは、二階の広間の持ち主であり、同じ場所でペンテコステを待ち望む祈りがなされ、そこに聖霊が注がれ、教会が誕生しました。
マルコはその教会で祈られた祈りが聴かれるという奇跡を見ました。
使徒 12:5 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。
使徒 12:16 しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。
次にマルコは、パウロについて最初の宣教旅行のアシスタントとして出かけて行ったのです。
使徒 13:5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネ(マルコ)を助手として連れていた。
ところがマルコは途中で単独行動をとり、一人エルサレムに帰りました。
使徒 13:13 パウロとその一行は、パフォスから船出して、パンフィリヤ州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
その結果、パウロの怒りを買ってしまったのです。
使徒 15:37 バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。
使徒 15:38 しかしパウロは、前にパンフィリヤ州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。
それから後、バルナバはペトロにマルコの育成を頼んだのです。
ペト1 5:13 共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。
ここから学ぶことはたくさんありますが、今日は一つだけ「あなたの霊と父や母を尊敬し、大切にしてください」ということを教訓としたいと思います。
マルコはペトロを霊の父として尊敬して、仕えたのです。
② 福音書記者マルコ
マルコによる福音書の内容はペトロのメッセージです。
マルコ福音書が生まれたいきさつについて、次のようなことが言われているのです。
ペトロは、ローマの教会で主の働きをしていました。しかしペトロは、ガリラヤなまりのヘブル語しか話ができませんでした。ですからローマの人々に分かるように語る通訳者が必要でした。その通訳者がマルコだったのです。マルコは、ローマの公用語ギリシャ語に訳したのか、あるいはラテン語に訳したのかわかりませんが、いつも通訳者として働いていました。
ペトロはいつもイエス様の話をします。人々はもっと聞きたいとねだる。ペトロの通訳者としてそこにいたマルコが、人々の願いに答え、自ら筆を執った。それがマルコ福音書だというのです。
ペトロの通訳者マルコは、ただ言葉を翻訳するだけでなく、ペトロの信仰が手渡しされるように伝えたのです。
次のエピソードを挿入したのは福音書記者マルコ本人だという説が有力です。
マコ 14:51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が彼を捕らえようとすると、
マコ 14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
ここに通訳者マルコのあり方が描き出されているのです。
ペトロは、イエスを三度知らないと裏切った男です。何度もその失敗談を語り、マルコは訳しました。
そのような自分の愚かさを、弱さを、述べながら恵みを語るペトロにマルコは影響を受け、自分の失敗談を挿入したと言われるのです。
恩師の言葉。「福音とは、言葉だけで、知的な教えだけで、伝えられてきたのではない。人格から人格に手渡しされるように、福音は語り継がれてきた」。
③ マルコが記した福音の頂点
マコ 1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
福音書というと、イエスの物語、伝記、教え、と思ってしまうのですが、福音書は「福音」が書かれているのです。福音とは、イエス・キリストが私達の救い主であるということです。
イエスが私たちの罪のために十字架にかかり、蘇られた。そのイエスを信じると、私たちの罪が赦されて、天国に行くことが出来る。
「イエス・キリストの福音」とは、イエス・キリスト=福音を意味する言葉です。
イエスの弟子たちは、それを次のように言い換えました。イエスの十字架と復活=福音。
その福音の頂点とされているのが、マルコ15:39であります。
マコ 15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
「この人は、イエスは神の子」、この言葉は、マルコ1:1の「神の子イエス・キリストの福音の初め。」と響き合っているのです。
しかもマルコは、弟子の口ではなく、異邦人、外国人であるローマの百人隊長の言葉を使って、この人は神の子であったと信仰告白をさせるのです。この人は立派な人だったと言わないで「神の子」であった。
弟子たちを含めて、誰一人、イエスが十字架にかかっている姿を見て、これが福音だ、これが私たちの救いのためだとは思っていなかった。
しかし死刑を執行したローマの百人隊長は、死刑執行を毎週のように行っているから分かったのです。
この御方の死は、自分の罪のためではない。自分の罪のために死刑にされる罪人が死んでゆく姿ではない。この御方の死は、私たちの罪の身代わりなのだ。神の子でなければ、このようなことは出来ない。
福音は、語り継がれてきました。導いてくれた人から手渡しされてきました。それがイエスの十字架と復活です。
この福音を、私たちもまた次の世代に語り継いでゆきたいのです。