2019年7月14日の説教要約 「時代の中で星のように輝く」

2019714日の説教要約

   「時代の中で星のように輝く」   中道由子牧師

 

≪そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまなまがった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。≫       (フィリピの信徒への手紙2章12~18節)

 

 

鵠沼教会65周年、おめでとうございます。

鵠沼教会は、1946年昭和21年に、単立鵠沼海岸教会として吉沢幸平牧師によって始まりました。1947年、昭和22年に、警察に勤務中の坂倉敏夫牧師が協力牧師として協力されました。吉沢牧師引退に伴い、鵠沼海岸教会は解散しましたが、1951年、昭和261月、 坂倉牧師は日本ホーリネス教団鵠沼教会として再建、再出発されました。

そして、1954年昭和29年に、坂倉牧師はホーリネス教団から任命を受け、同じ年の7月に 警察を辞され、伝道に専従なさいました。私たちはこの7月でちょうど65年になることで、65周年記念誌を出し、記念礼拝お祝い会をもつ運びとなりました。

鵠沼教会の記念誌を読みながら、信仰を全うして天に召された兄弟姉妹の文章を拝見し、教会を愛して生涯を終えられたことに心打たれました。

主が導き愛された教会の中で、次の時代を生きている私たちがどのように信仰の歩みを続けていくべきか今日の個所から見てまいりましょう。 

 

1、          恐れおののく心で

パウロは、12節で「自分の救いの達成に努めなさい。」と言っています。

フィリピの信徒への手紙ではこの救いの達成に力を入れて書かれています。

私たちの信仰が成長することです。救いの達成というと、何か一見自分の力による救いを思わせるような言葉ですが、決してそうではありません。

キリストの福音による救いには3つの段階があります。

一つは、救われた時。これは、全く神の一方的な恵みによるものです。次は救われてからの信仰の歩みです。最後に、神の国に入って救いが達成する日です。これは主が再びお出でになる日に完了します。

救いは、完全に神の一方的な恵みのわざですが、信仰の歩みは神の助けに応答しつつ進む私たちの側の責任でもあります。ここでの「達成」というのは、最後までやり遂げることです。中途半端に終わらないことです。

この12節には「恐れおののく心で」とあります。

パウロはフィリピの人たちに、神の前に人の前に一貫した態度を保つように勧めています。他の人が見ていてもいなくても、いつも神様の前にいることを覚えて歩まなければなりません。神を恐れて生きることです。

自分を守るためについた小さな嘘。でも、その嘘を正当化するためにまた嘘をつかなければならない。そして、信用失い、神様が見えなくなってしまうということがあります。

始めは、ちょっとした嘘であり、自分の願いがそこには入っていたのでしょう。

だんだん辻褄(つじつま)が合わなくなったのです。どこからそうなってしまったか、そこに立ち返り、悔い改めをするなら誰でもそこから新しく歩むことができます。

この救いは恐れおののく心で、達成されていくものなのです。

13節「あなた方のうちに働いて、御心のままに望ませ」を新改訳では「志を立てさせ」となっています。私たちのうちに志しを立てさせ、聖霊によって、私たちに「事を行わせてくださる」のです。

リビングライフの黙想に「意外な道を開かれた神」というエッセイがありました。

「長い時間をかけて丹念に立ててきた計画が、一瞬のうちに水の泡と消えたり、広い道に行きたいのに狭い道が開かれたりすることもありました。そんな時必要なことは、

聖霊の導きには、失敗がないという信仰をもつことです。聖霊は、私たちにビジョンを与え、同労者に出会わせ、神のご計画を成し遂げるのに必要なものを備えてくださいます。私たちが安全な所だけを選んで通ろうとし、自らが立てた人生の計画だけを成し遂げようと必死にもがくなら、聖霊の導きが見えません。自分の努力や情熱ではなく、聖霊の導きに依り頼み従おうとすると、謙遜な態度を持つことが大切なのです。」

 

2、          つぶやかず疑わず

荒野におけるイスラエルの民は、しばしばつまずきましたが、それは彼らが怠惰であったからではありません。彼らは正しく出発したけれども、後悔して後ろを振り向いたからです。エジプトの肉なべを懐かしんで、目標を失ってしまったのです。

つぶやきは、神への不信感をもつことです。それは共同体に影響を与えるのです。

ハ・ヨンジョ先生の「荒野の祝福」という本の中でこのようにかいておられます。

「ひとは苦しくなると過去を思うようになり、食物がなく飢えを覚えるときは弱くなります。職を失い、事業が失敗し、現在の自分が思いどうりにいかなくなると不安になります。モーセは、もう少し行けば主の備えがあるということを知っていました。それは、モーセがエジプトからイスラエルの民を導きだす40年前から、ミリアンの荒野にいて、荒野で主から訓練を受けたので荒野のことを知っていたからです。だから、もう少し行けば主の備えがあるとわかっていました。でも、イスラエルの民はそれを知らないので、エジプトにいたほうがよかったと不平をこぼしたのです。」

新共同訳では「不平や理屈を言わず」になっています。いろいろ言いたいことがあっても主がよしとされたらぶつぶつ言わないで従える心、そして未来に希望を持つことです。

多くの人が、教会の中でつぶやきや疑いの渦に巻き込まれて傷つき、教会に背を向けてしまうことがあります。完璧な教会はありません。兼牧の教会でもそれぞれの教会が長所と短所をもっています。その中で、導かれてきたおひとりひとりが教会を愛し、欠けを補おうとしてくださる、それがキリストの教会をたてあげる姿でもあり、個人の救いを達成する過程でもあります。

鵠沼教会の歴史の中でもその歩みが見られます。

吉沢先生が、鵠沼教会の基礎の働きを始めて下さり、長澤先生がご自宅を教会のためにささげて下さり、両先生は鵠沼教会の働きを坂倉先生に託して行かれました。

そして、坂倉先生はご自分の生活を犠牲にして鵠沼教会の建設のために労してくださいました。すでに天に召された多くの教会員が鵠沼教会と上中先生ご一家を支えてこられたと思います。今ここにおられる多くの方がその上中先生ご夫妻によって育てられてきた足跡を読ませていただきました。

不平を言ってつぶやきたかった時期も、疑いたかった時期もあったと思います。

にもかかわらず、鵠沼教会はこうして65周年を迎え、皆さんのお顔をここから拝見する時、神様に向かって微笑んでおられる。

これが、星のように輝いている姿だと思います。

星はたった一つでは夜空を照らすことはできません。たくさんの星が輝いていて真っ暗な夜空は見事な神の栄光を表します。あの人が輝いているから私はくすぶっていてもいいわけではないのです。あなたの小さな澄んだ星の光が夜空に必要なことを忘れないでください。神様は「私の目にはあなたは高価で貴い」とお声をかけてくださいます。

最後にあなたが輝くために必要なのは次のポイントです。

 

3、          いのちのことば握って

結婚して母教会から転会した方が、教会になじめず悩んでいました。

どうしたらよいかわからない霊的な問題を訴えてきました。そんな時、「先生、み言葉が来ました。もう大丈夫です。」と返事をもらいました。状況は何も変わっていない、でも神様がみ言葉を個人的に下さり、それは神様からのラブレターのように神様を近くに感じたのでした。皆さんもそんな経験がありませんか?

ヨハネによる福音書1章1節

「初めに言があった。言は神であった。」

ここでの言はロゴスと言われます。受肉されたキリストであり、イエス様ご自身なのです。

そして、1章4節「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

エス様ご自身であるこの言は命の言葉となって私たちを輝かせてくれます。

がっかりして落ち込んだ時も、試練の中で立ち上がる力がない時も、この言葉は私たちを引き上げ、神と出会わせ、希望を与えてくれます。

この言葉はこのフィリピ信徒への手紙2章16節の「命の言葉をしっかり保つ。」

の命の言葉です。

その言葉さえあれば、私たちは、どんな状態にあっても大丈夫になります、支えられていきます。皆さんは、これからの66年の教会の歴史を刻んでいく方々です。

受け継いだバトンを喜びをもって受け取り、歩んでまいりましょう。