2022年11月27日の説教要約 「わたしの平和」

2022年11月27日の説教要約

                         「わたしの平和」    中道由子牧師

 

《わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。》

                                                 (ヨハネによる福音書14章25~28節)

    

1、あなたの弁護者

罪を犯したと疑われている被疑者や被告人も、弁護人をつけることができます。

弁護人は、刑事手続の中で被疑者や被告人の権利を守ることによってえん罪を防止する役割を担っています。

しかし、聖書が言う罪というのは、一般に言われる罪とは異なります。

一般の罪は、行いにしても言葉にしても、罪の結果なのですが、聖書が示す罪は罪の根本となるものについてであります。

私たちのその罪の根となるものを、イエス様は自ら十字架の上で身に負ってくださったのです。私たちの罪は帳消しにされました。

それゆえ、イエス様だけが神様のみ前で私たちの弁護をすることができるお方なのです。

しかし、本日の聖書の箇所は、聖霊を弁護者と言っています。

ギリシャ語で聖霊を「パラクレートス」と言います。

エス様は私たちと同じ人としての肉体をもっておられたので、私たちを助けたい時でも、弁護したい時でも制限がありました。やがて、イエス様が十字架にかかられ、復活され天にお帰りになられてから、もう一人の助け主である聖霊なる神が送られます。

聖霊なる神は、今主を信じている私たちの心に住んでおられます。

ラクレートスは、呼べば近くに来てくれる人という意味です。

寂しいときに、誰かにいてほしいと思うなら、そばにいてくれる。「助けて!」と心の中で叫ぶなら、近くで助けてくれる。

人から責められたりした時、私たちの見方になってくれて、弁護してくれる。

それがそばにいてくれる聖霊という神様なのだとイエス様はおっしゃるのです。

その弁護者は、「もう一人の弁護者」「別の弁護人」と言われています。

この弁護者が、あなたがたのもとにいる、あなたがたの内にいると言うのです。

 

2、平和を与える聖霊

平和は、新約聖書では「エイレーネ」、旧約聖書では「シャローム」という言葉です。

ヘブライ人が挨拶で「シャローム」と言う時は、「あなたに神様の最大の善が望みますように」という意味が込められているのです。

 私たちの心に平安がない時と言うのはどんな時でしょうか?

やってはいけないことをしてしまった時、罪にかかわること、あるいは神様の御心を悲しませることをしてしまった時、思ってしまった時、心の平安を失います。

ガラテヤの信徒への手紙5章20節には肉の業が列挙されています。

その中の「敵意」ですが、これがいつの時代も戦争を引き起こすものです。

もともと戦争と言うことを考える時、根本的には相手に対して『恐れ』を抱く時争いの土台ができてしまいます。たとえば相手に対して無知である時、相手を恐れます。

また、相手を知っていたとしても、相手の気持ちや意図を知らない時、相手の発言や行動に対して『恐れ』を抱きます。

まして、相手に対して敵意を抱いての言葉や行動は『非常な恐れ』を抱かせます。

私たちが誰かに敵意を持つ時、本当は仲良くしたいけれども、自分で勝手に相手に対して脅威を感じてしまうことがあるかもしれません。

この敵意、争いという罪と聖霊は共存できません。

心にこのようなものがあると、聖霊は悲しんでその人から離れていってしまうのです。

それは聖霊の賜物に平和があるからです。

ガラテヤ5章22,23節「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」

平和は、人間が作り出すことができない、神が与えてくださるものなのです。

 

3、地には平和

人間関係の平和とは不思議なものです。あなたにたくさんの友達がいるとします。

だいたいの人とはうまくやっていても、その中の数人、もしかしたらたった一人とうまくいっていないことで、あなたの心の中は平安でないかもしれません。

平和とは、人との関係です。誰かとも関係がうまく行っている。それを平和な関係と言います。そして誰かとうまくいっている、平和であるなら、心の中が平安なのです。

平和は、ある人との関係、そして、平安は、心の中の感情です。

私たちは誰かから、「あなたなんかいらない。」「あなたなんか関係ない。」と言われたらどうでしょう?深く傷つきます。それを神様に言っているとしたらどうでしょう?

神様なんか関係ないという事が、実は罪なのだと聖書は言います。

もし私たちが神様と平和な関係を持っていないなら、心の奥深いところにある平安な感情を持つ事ができません。

神様は人間を、関係持つ存在として造られました。

人間関係がそうであるのと同じように、神様との関係に置いても平和であるという事がとても大切です。

エフェソの信徒への手紙2章14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、」。

エス様が生まれてくださったのは、私たちが神様と仲直りするため、関係を回復するためなのです。

エス様を信じることによって、あなたの心にまことの平和が、平安が訪れますように。

それが地には平和、御心にかなう人々にあるようにというクリスマスのメッセージです。