2022年11月20日の説教要約 「神の種がとどまっている」

2022年11月20日の説教要約

          「神の種がとどまっている」  照内幸代牧師

 

≪神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。このひとっは神から生まれたので、罪を犯すことができません。≫

                           (ヨハネ第一の手紙 3章9節)

 

もし皆さんが、誰かから「罪」って何ですかと尋ねられたら、皆さんは一体なんとお答えになるでしょうか。ヨハネは罪とは何かということを実にシンプルに答えています。「罪とは律法に違反することです」。なぜヨハネは、こんなにも当たり前に思えるようなことをわざわざ書いているのか。それは、この時代の人々が、罪を犯すことを正当化していたからでした。この当時の人たちはいろんな理由をつけて罪を犯していたのか。それはしょうもないことだな、とお思いになった方もいらっしゃるかもしれません。しかしよく考えてみると、これはまさに私たちに言われていることではないか、とも思うのです。罪は罪だ、という当たり前のことこそ、人は一番受け入れ難いものなのではないでしょうか。自分がみじめな気がして、自分の尊厳が失われる気がして、自分が悪かったと認めることを妨げるのがまさに罪の力です。どんな理由があるにせよ、罪は罪だ、私は相応しくないことをしたと受け入れることこそ、私たちクリスチャンの取るべき姿勢であると思うのです。なぜなら私たちはキリストに従うもの、クリスチャンであり、キリストは罪を取り除くためにこの世界に来られたからです(3章5節)。

 

またもう一つ、クリスチャンがもう罪を犯し続けることはできないという理由で、彼はここで面白い理由を言っています(3章9節)。神の種がその人の内に留まっている。「神の種」とは実に興味深い表現方法です。「神の種」、すなわち福音には特徴があります。その一つめは、それはいろいろなところに蒔かれるということです。福音はその土地が良くない所であっても、確かに一度は届けられているのです。福音の種の特徴の二つ目は、それを成長させてくださるのは神であるということです。まかれたあと、その種が実を結ぶために私たちが何かしなければならないというのではなく、種は神様の力を受けて、神様によって成長していくのです。ですから私たちに求められているのは、本当に種が留まる良い土でいること、神様の御言葉を素直に受け止める存在であることそれだけです。