2022年11月13日の説教要約
「土から造られたアダム」 中道善次牧師
≪主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。≫
(創世記2章7節)
今日のヘブライ語は、アダムとイブリーです。アダムは、神に最初に造られた人間アダムとエバのアダムです。そしてイブリーというのは、ヘブライ、あるいは、ヘブルの元となる発音であります。
1,私たちは土の器
聖書朗読でお読みしました箇所にもう一度目を留めてください。
創 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
新共同訳は、ヘブライ語をカタカタで表記することが所々あります。特にこの箇所のように、言葉の遊びの要素があるところでは、それが分かるように表記しているのです。
そしてその言葉遣いに人間の本質があるのです。
アダムは土(アダマ)から造られた。だからアダムというのだ
そこから聞き取りたいメッセージ、それは私たち人間が土から造られたもろい存在であるのです。
その人間のもろさを、パウロはコリント信徒の手紙で書いております。
コリ2 4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。・・・
コリ2 4:16 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」(肉体)は衰えていくとしても、・・・
コリ2 5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋(肉体)が滅びても・・・
パウロは、人間とは、弱くて、壊れやすい土の器であると言っております。
ここで言う土の器とは、素焼きの焼き物で、上薬を塗っていないのです。壊れやすい状態です。
小説家の三浦綾子さんは、「この土の器をも」という題の本を書いておられます。それは自らを、もろい、壊れやすい、しかも、見栄えのしない土器だと言われるのです。
三浦綾子さんとパウロには共通したところがあります。両者とも、数々の病気を抱えて生きた人たちでした。
パウロには、棘(とげ)と呼ばれる病気がありました。
コリ2 12:7 ・・・それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
パウロが棘と呼ぶ病気は何であったか?諸説あります。眼病、背骨が曲がっていること、マラリアにかかりその後遺症があった、てんかん、ある人は、鬱病の可能性も指摘します。
きっと次のように言われたと思います。パウロ先生、あなたは人の病気はお祈りして直すけれども、自分の病気は治せないですね。
それらを受け入れてパウロは言うのです。私はもろい土の器です。しかし私の中にキリストという宝がおられるのです。言葉を換えると、十分な恵みです。弱さがあっても、それ以上に輝きを放つ恵みがあるのだと言うのです。
2,息を吹き入れられた人間
もう一度、今日の聖書箇所を読みます。
創 2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
エゼキエル書37章には、枯れた骨の谷の預言表現があります。
枯れた骨が、くっついて人として生きる時の情景です。
エゼ 37:8 わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊(息)はなかった。
ここでエゼキエルは、「土の塊はできたが、神の息、霊が吹き込まれていない。それがないと、人は生きた者にならない」と言うのです。
土の器が、生きるために、神は息を吹き込まれたのです。
人間に吹き込まれた大切な命の息があったのです。命の息を吹き込まれた人間は、霊を持っているのです。
聖書は、人間のうちにある霊が取り去られる時、人は死ぬと告げます。
詩 104:29 御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹(ルアッハ)を取り上げられれば彼らは息絶えて 元の塵に返る。
コヘ 12:7 塵は元の大地に帰り、霊(ルアッハ)は与え主である神に帰る。
神様が私たちに吹き込まれた命の息がある間、私たちは生かされているのです。
そしてそれを神が取り去られる時、私たちの肉体は、塵に帰るのです。
では霊はどうなるのか?
自動的に神様のところに帰るのではないのです。
神様のところに帰るには、神が吹き込まれた命の息と共に、もう一つの息「聖霊」を受けなければならないのです。
私たちが、イエスを信じ、新しく生まれる時、聖霊が与えられるのです。神からの命の息と聖霊の二つを与えられて、人は本当に生きる者となるのです。
3,天を目指す旅人
次に学びたいヘブライ語は「イブリー」であります。
イブリーについて、私にはすてきな旅の思い出があります。
聖地旅行で、朝早く、ガリラヤ湖畔を散歩していました。そこで私はガリラヤ湖の漁師に出会いました。私は漁師に、英語で、「魚が取れましたか?」と聞きました。するとその漁師は、イブリー、イブリーというのです。私はきょとんとしていたのです。
しかしその後、漁師さんは、魚の尻尾を握って、大きな魚が捕れたぞと私に見せてくれました。
私はサンキューと言い、漁師さんとのやりとりは終わりました。
イブリーとは、ヘブライ語という意味でした。漁師は、私は英語ができない。ヘブライ語で話してくれ。そのような意味のイブリーだったと気がつきました。
聖書の中で最初にイブリーと、でてくるのが創世記14:13です。
創 14:13 逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。
ここでアブラムのことをヘブライ人と呼んでいます。口語訳聖書ではヘブル人です。
これはユダヤ人を理解する上で大変大切な事であります。
ヘブライ、ヘブルとは、ユダヤ人が自ら呼ぶときに使わない言葉であります。かれらはイスラエル人とか、ユダヤ人という表現を使うのです。非ユダヤ人に紹介する時の言葉がヘブライです。
ヘブライは、イブリーと発音する言葉です。イブリーという言葉の語源を調べてみると、流民、流れる民のことです。
ヘブライとは、流浪の民、あるいは流れ者、よそ者という意味であります。もう少し耳障りのいい表現で言いますなら旅人であります。
アブラムはまだこの時、14:13にあるように、旅人、よそからきたお客様だったのです。
聖書の中には、ヘブライ人への手紙という書物があります。
ヘブライ人への手紙を書いた著者にはメッセージがありました。
私たちクリスチャンもまたヘブライ人だ。それは民族を表すヘブライ人ではなく、霊的な意味で言うのです。私たちは、この世の中ではよそ者なのだ。一時滞在者なのだ。私たちは天国に向かって旅をしている旅人なのだ。ヘブライ人アブラムと同じように、私たちもまたヘブライ人なのだと述べる。
それを告げている箇所があります。
ヘブ 11:13 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものは手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者(旅人)であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。
ヘブ 11:14 彼らはこのように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。
クリスチャンは、この地上では一時滞在者だ。何故なら私たちは天国に向かって旅をする旅人なのである。クリスチャンであることで、私たちはよそ者扱いされることがあるかもしれない。しかし事実そうなのです。私たちの国籍は天にあるからです。