2018年11月11日の説教要約 「わたしもその中にいる」

2018年11月11日の説教要約
 「わたしもその中にいる」  中道由子牧師
  <マタイ18章15〜20節>

≪どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。≫ 
                                      
18章の前半には幼子のことが書かれています。具体的には、小さな者をつまずかせる罪の重さについてです。続いて12節には迷った一匹の羊を探す姿が書かれています。そして15節から教会の中での罪に対しての解決と祈りということが書かれております。後半21節からは赦しの問題です。18章全体をとおして罪と赦しがテーマになっていて、その中で19、20節のみ言葉が中心となっています。今日はこの18章全体を少しずつ解き明かしながら「教会の中での罪の解決と赦し」について学んでいきたいと思います。

説教の要点
1、教会の中でのつまずき 2、教会の中での忠告と赦し 3、教会の中での執り成しの祈り 

1、教会の中でのつまずき
 18章の前半は幼子、小さな者を主は大切にされることがわかります。
当時の社会では幼子はまるで人間として価値がないと考えられていました。自分の財産の一部としてしか考えられていなかったのです。けれど神様の目には彼らは尊い、だから彼らの背後には守りの天使がついているというのです。(10節)この守りの天使は天におられる神のみ顔を直に拝顔している。だから決して幼子たちを軽んじてはならないというのです。さてもう一つの訳に「この小さい者」とは6節「私を信じるこれらの小さい者」ゆえに、これは「主が信仰を与えたこれらの小さい者たち」である、という訳があります。ここでは弟子たちのことでしょう。
つまり私たち教会に生きている者たちがお互いを大事にし合うことだと思うのです。この人も、あの人も主によって信仰が与えられた小さな者たちなのです。
その者たちをつまずかせるという問題が起こってきます。悪気がなかったのに、相手がつまずいてしまったということもあるでしょう。けれど自分が誘惑にあっただけでなく、他者に影響を与えてしまう人、あるいは教会全体に影響与える罪をもたらす人は災いであると、6節以降に厳しく書かれています。けれど私たちはみな自分はつまずくことはあっても人をつまずかせることなどあり得ないと思うのです。また人をつまずかせることがあったとしてもつまずく方がどうかしていると思ったりします。しかし10節を見てください。「小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」とあります。リビングバイブルでは「小さい者を見下げたりしないように」となっています。つまずきの根はこの「見下げる思い」から来ていると言えます。
 次の節に「迷い出た一匹の羊」の例話が出てきます。ここを読むといろいろ疑問が出てきます。99匹をおいて迷った一匹を探しになんて、よっぽど値打ちのある羊なんだろうか?あとの99匹はその間にどこか行って迷子になったり、獣に襲われたりしないのだろうか?このパレスチナ地方では個人というより村共有の羊たちでありましたから、羊飼いも2,3人いたというのです。イエス様誕生の時、夜、野宿をして羊の番をしていた羊飼いたちも複数でした。ですから一人がいなくなった羊を探しにでかけ、後の者が99匹を守るわけです。羊という動物は目も悪く、うろうろして迷いやすい動物で高原から渓谷の方に迷っていくと岩棚(崖)で一人で、はい上がることも、おりていくこともできず、力尽きてしまうそうです。パレスチナの羊飼い達は迷った羊の足跡を追う名人であったそうですが、もしその羊が獣にやられた場合はその羊の毛皮なり骨とかを持ち帰らなければならないルールがあったそうです。ですから他の羊の群れを連れ帰る羊飼いたちは何度も山の方を見ながら心配をしながら帰るそうです。仲間の羊飼いが肩に迷い出た羊を連れ帰るとき、みな大喜びするのです。
迷い出るとはつまずいたということではないでしょうか?この一匹が迷い出て群れからいなくなったのです。
ここで、まず神様の愛は99匹では満足しない愛なのです。どうでもいい存在はこの神の家族に一人もいないのです。
二番目に神様の愛は忍耐強い。羊たちはみな愚かです。だから仲間が危険な所に行っても止めないのです。人間もまた愚かな人に対して忍耐がない。「あの人はいつもこうだから・・・前もこうだった。」と見切りをつけます。その人がしたことをいつまでも覚えているのです。しかし、神様には役に立たない人は一人もいない、何度でも信用して受け入れてくださるのです。
三番目に神の愛は探す愛です。羊飼いは羊が帰ってくるのを待っていないで探しに行きました。ユダヤ人はイエス様の教えが理解できませんでした。彼らは罪人はみじめな思いをして帰ってくるなら赦されると思っていたからです。

2,教会の中の忠告と赦し
「兄弟が罪を犯すなら」まずどうするかというと一人で行って誤りを指摘してあげなさい、というのです。これはなかなか勇気のいることです。英語でコンフロントという言葉を使いますが、「何かに立ち向かう」ことです。これは自分が正しいことを言って相手を正すために行くのではありません。迷える一匹の羊を取り戻すために行くのです。20節で「ふたりまたは三人でもよい」とありますから、二人きりでいいのです。「私の名によって集まるところにわたしもその中にいる」と言ってくださっています。主がいてくださるために二人になるのです。クリスチャンが二人で自分たちの罪について嘆くとき主がそこにいてくださるのです。「どんな願い事ついても(兄弟が罪を告白できるように)あなたがたのうちのふたりが地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」とりなし祈ることであります。そこにも主はおいでくださいます。
それでも駄目な場合は賢い人を一人、二人一緒に行ってもらう。申命記19;15にあります。
 すべての事柄がきちんと確かめられるためなのですが、教会の中で起こることは裁判のようなことではなく、主観的な見方をして相手を訴えるのでもありません。客観的に見てもこれは間違っていないか、ということの証人になってもらうのです。それでも聞き入れない場合は教会に、私たちの教会だと牧師と役員に申し出て、役員会に委ねてくださいということです。罪を裁くことができるのは神お一人であって誰も裁く権利は持っていません。牧師や役員がすることもまた一匹の羊を取り戻す働きかけなのです。
相撲界やスポーツ界で何か問題が起こると、この頃では第三者委員会というのが立ち上げられます。そして、調査を受けるわけです。
私はこの任務に当たるとき21節からの主の赦しの真理が理解できなければこの役にとても当たれないと思うのです。有名な七たびを七十倍するまで赦しなさい、というたとえです。ユダヤのラビたちは三度までという規定を定めていました。ですからペテロは七たびと言い、ずいぶん寛容な見解を示したつもりでいました。しかし、主は七たびを七十倍するまでと言われました。
これは創世記4;24「カインのために復習が七倍ならばレメクのために復讐は七十倍」というところからイエス様はこれを復讐ではなく赦しの回数として用いられたのです。ではその次の回数になると赦さなくてもよいのでしょうか?回数の問題ではない訳です。一万タラントの負債があった者が王様から赦された、という例話がここで出てきます。その人が、その帰りの道で百デナリを貸してやっている仲間に出会って赦せず、獄に閉じこめた話です。百デナリというのは五十万分の一、つまり取るに足りないことで騒いでいるのです。でもよく考えてみると私たちは誰かが自分を傷つけたり、自分に対して罪を犯すことにはたいへん敏感です。しかし自分が誰かに対して罪なることをしでかし、大いに傷つけたことには鈍感で多くは「そんなことあったかな〜」と忘れているのが常です。ですから、「私こそがその教会に悪影響を与える人の罪を扱いましょう」、という人は決してこの忠告の場にふさわしい人ではありません。
17節に「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会のいうことも聞き入れないなら、異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」とあります。故松木祐三師はここを「彼を未信者か求道者のように扱いなさい」と解釈されました。最初から福音の恵みを受け直す必要がある、ということです。しかし異邦人、取税人も心をもっている、決して望みのない人たちではない、イエス様は取税人のマタイやザアカイと友になられたのです。

3,教会の中の執り成しの祈り
 18節、19節に「はっきり言っておく」と主は繰り返しておられますから、大切なことでしょう。教会が人の罪を免除したり、赦したり、その時の人の運命や永遠を決めることができるわけではありません。けれどもその人との関係は今だけでなく、永遠に続くのです。だから彼のために執り成し、彼を獲得してください、というメッセージが読み取れないでしょうか?ウイリアムバークレーは「祈りが自己中心でなければ常に聞かれる」と言っています。つまり私たちの執り成しの祈りが清められていくことである、と。自分のためによいと思える祈りが聞かれてもそれはただ誰かの罪を暴き立てただけに過ぎません。祈りが聞かれるとき私たちの願っているようではなくすべてを知っておられる神が愛と知恵を持って最善を成してくださることを信じましょう。この祈りを二、三人の集まりに託す、とおっしゃってくださいます。皆さんが主にあって集まる所に、教会の小さな集まり、祈祷会、聖書研究会、あるいはクリスチャンホームの家庭の中で執り成し祈る時、「私もその中にいる」と主は言われます。