2020年11月1日の説教要約  「神の心を動かす祈り」

2020年11月1日の説教要約

       「神の心を動かす祈り」   中道由子牧師

  

≪その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」≫

                     (創世記18章16~33節)

 

 1、主に信頼される人

 18章で、アブラハムは3人の旅人をもてなします。厳密に言うと、2人がみ使いでした。では、もう一人は誰なのでしょうか?アブラハムと旅人たちはソドムを見下ろすことができる所まで一緒に行きました。彼らを見送るためです。ここで、17節急に「主は言われた。」と主が出てまいります。そして主は「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」と言われる。神様がなさることですから、アブラハムは相談されなくても一言も文句など言える立場ではありません。

でも、神様はその計画を知らせて、その計画の中でアブラハムを用いようとされたのです。主がアブラハムに御心を示されたのは、アブラハムとその子孫は預言者として主のみ言葉を世界に宣教し、祭司として他のすべての国々のためにとりなしをする使命が与えられているからです。

神様は新約の現代に私たちクリスチャンにこの役目を与えておられるのではないでしょうか。アブラハムに秘密のことを知らせてくださったように、私たちにも世界の平和と世界宣教のために祈ってほしい、福音が伝えられ終わりの時が来ると、信頼して大切なことを託してくださっているのです。

 ここで、主がアブラハムに知らせた秘密は、ソドム、ゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが聞こえるというのです。アブラハムの耳には一つの音も伝わってこない。しかし、神の耳には、叫びが聞こえていました。

かつてカインがアベルを殺した時、創世記4章10節「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。」罪は叫び続けます。キリストが血を流し、罪を贖われるまで、この叫びは消し去られることはありません。

神はソドムへの裁きを定めておられましたが、アブラハムに前もって知らせて、仲裁する時間と可能性をくださいました。

 主は21節「私は降って行き、、、見て確かめよう。」

主は、ご自身の宣告を実行に移す前に、いつでも、事の真の状態を調査されます。また私たちの所にも来られ、介入されます。アブラハムはソドムに滅亡が近づいていることを感じ取ります。

22節には、2人のみ使いがソドムの裁きのために向かい、主はアブラハムの所に残った、という書き方になっています。

 

2、主の前に立ち続ける人

22節で「アブラハムはなお、主の御前にいた。」と言う個所を、ATD旧約聖書注解では、「ヤハウェはまだアブラハムの前に立っておられた。」となっています。主がアブラハムの仲裁を待っておられるかのような表現です。

23節「アブラハムは進み出て言った。」ここから、アブラハムと主との会話が始まります。ここからが執り成しの祈りです。

 まずアブラハムの関心は、ソドムに住んでいる甥のロトの安全だけではなく、悪いものと正しい者を区別しない裁きは、神の正義に反すると言います。

ATDの訳では「そんなことをなさるとは、あなたらしくないではありませんか。」

主の公義に訴えているのです。アブラハムは、ソドムに50人の正しい者がいるなら、悪人を含めたソドムの町全体を赦してくださいと、神に大胆に頼みます。神はこの要求を受け入れられます。アブラハムは、6度にわたって、ソドムの救いに影響を及ぼす正しい者の数を10人まで減らしていきます。アブラハムの執り成しは、正しい者の力が悪しき共同体を破滅から救おうとします。

 私たちはこのアブラハムの執り成しの祈りからいくつかのことを学ぶことができます。

(ア)それは孤独な祈りでした。

彼は、広々とした高原に立っていたでしょう。しかし、主の前に立っていました。たといどんなに親しい人の前でも、他の人がいるところでこのような祈りをすることはできません。すべてのクリスチャンは祈りのために密室を持つことが大切です。その密室の戸を閉じて、隠れた所におられる父なる神に祈るのです。

(イ) それは長い、粘り強い祈りでした。

ここでは、神と押し問答をするような粘り強い祈りがなされています。

人生の中で、このような祈りを経験できることは幸いです。

ある牧師は、神様は教会の執り成しの祈りを用いられると、と言われました。

アブラハムのように神の前に一人で立って必死で祈る祈りは一人ではなかなかできませんが、教会で皆で祈るとき神様はその祈りに耳を傾けてくださる、そしてそのような祈りの積み重ねが教会を建て上げていくのではないかと思います。また私たちの日々の短く、神様との信頼関係がある地道な祈りの積み重ねによって、困難がやってきた時にこの長く、粘り強い祈りに導かれていくのではないでしょうか。

(ウ) それは非常にへりくだった祈りでした。

27節「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。」

30節「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。」

彼は、恐れを抱きながらも大胆に、主の前に祈ります。それは、神様の懐(ふところ)に入り込むような、もぐりこむような祈りでもありました。

 

 

3、主の愛と忍耐

 ソドムには、正しい人が十人もいなかった。しかし、ロトとその妻、それに二人の娘がその町から救われました。19章に入ります。神様は更に、この娘たちの婚約者まで救おうとなさった。それは、決して彼らが10人の中の正しい人に入っていたからではありません。この婚約者たちは、共にいくことを拒みました。ロトの妻は、ソドムを惜しんで振り返り、塩の柱となってしまいます。また、ロトの二人の娘たちは、父親を通して子孫を残すのです。のちのモアブ人とアンモン人です。イスラエルに敵対する民となります。結局、ロトでさえもソドムに住んでいるうちに道徳的におかしくなっていました。ロトが旅人であるみ使いを迎えた時、町の男たちがこぞってやって来て、その客を出せと言います。新共同訳では「なぶりものにしてやるから。」になっていますが、他の訳では、「その者たちを知りたい。」つまり、性的な罪の行為を示しています。それに対してロトは「乱暴なことはしないでください。わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。」と言っている。どうかしているとしか言いようのない父親失格の言葉です。

神はこのロト一家をこのソドムの滅亡から救い出そうとされたのです。ロト一家の正しさの故でないことは、もう充分わかります。アブラハムの執り成しの祈りゆえです。

私たちはここを読むときに大きな励ましを受けます。神様は私たちが日々家族のために、親族のために、友のために祈る祈りを聞いてくださっています。そして、その祈り故に、私たちの愛する家族を救いに導こうとなさるのです。あきらめないで祈りましょう。

  29節「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」

私たちが知らない所で、主は祈った祈りに答えて御業をなしてくださる。

そして、「あの時の、あなたのあの祈りを覚えて、あの人を救ったのだ。祈ってくれてありがとう。」と私たちにもやがて明らかにしてくださることがあるでしょう。