2018年12月9日の説教要約 「神に覚えられる幸せ」

2018年12月9日の説教要約
  「神に覚えられる幸せ」        中道善次牧師
<ルカ福音書 1章5〜13節>

今日の物語は、祭司ザカリアが神殿で奉仕をしている最中に、天使が現れ、奥さんに子どもが産まれるという御告げを受けた。老年になったザカリア夫妻に赤ちゃんが生まれる。その赤ちゃんは、救い主が来る先駆けとなる人物(洗礼者ヨハネ)だという御告げであった。
びっくりしたザカリアは、12節にあるようにおじ惑い、恐怖の念に満たされたのです。加えて、御告げを信じられなかったので、20節にあるように、息子の誕生までものが言えなくなってしまった。
ルカ 1:20 「あなたは口が利けなくなり、この事の起る日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」
それだけでなく、民衆も大変不安を覚えていた。
ルカ 1:21 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。
祭司がつとめの最中、不敬虔な行為をしたために神に撃たれて死んだという事例が旧約聖書に載っている。彼らは、祭司がミスをしないで勤めを終えるように祈っていた。
ルカ 1:10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。
平凡な人生を送ってきたザカリア夫妻に、驚くべきことが起こった。これがクリスマス。

①ザカリアの真面目な奉仕を覚える神
香をたく仕事の当番は、神からの特別なプレゼントであった。
ルカ 1:8 さて、ザカリアは、自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、
ルカ 1:9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。
一般の祭司が聖所に入って香を焚く奉仕は、それが出来たとしても一生に一度であった。
ザカリアのくじの当たる確率は大変低かった。
祭司24組は、各組が一週間交代で当番にあたる。各組平均して一年に二度当番が回ってくる。
当時の祭司の数は二万人弱いた。これを単純に24組に振り分けると、各組の祭司の数は約800名。
さらに一度くじに当たった人は二度と回ってこない。しかも一日だけの当番であった。
祭司の入れ替わりを計算に入れない単純計算でいうなら、57年間祭司の務めをしていると、ようやく回ってくる。
祭司の仕事は25〜50歳までの25年間。単純計算をするなら、祭司の職に就いていても、香を焚く務めが回ってこない人が、二人に一人以上はいた。
神は長年祭司として忠実に務め、おそらく50歳の定年を間近にしているザカリアを覚え、この特権、特別な祝福にあずからせて下さったことがわかる。
ルカ 1:6 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。
私たちが心に留めたいメッセージは、神様がザカリアの真面目さを覚えられたことである。
神は、私たちが行う普通の奉仕を見ておられる。覚えておられる。そしてそれに報い、祝福を与えられる。

②ザカリア夫妻の祈りを覚える神
ザカリア夫妻の長年の祈りに神は答え、子どもを授けられた。
推測だが、ザカリアは、定年間近、50歳近い年齢であり、妻エリサベトも40歳は超えていたと思われる。
神は、名前通り事をザカリアに行われた。
ザカリアという名は、ザーカル(覚える)と、ヤハ(神)で出来ている。
つまり神様から覚えられる人。それがザカリアという名前です。
ザカリアの忠実な奉仕を神が覚え、ザカリア夫妻の真実な祈りが神に覚えられた。
聖書には、神が「覚えた、心に留めた(ザーカル)」という言葉が何度も出てくる。
アブラハムの祈りを覚えた神:
創 19:29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め(ザーカル)、ロトを破滅のただ中から救い出された。
エジプトで苦しむ神の声を聞き、契約を思い出された神:
出 2:24 神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(ザーカル)、
ハンナの祈りを覚えた神:
サム上 1:19 一家は朝早く起きて主の御前に礼拝し、ラマにある自分たちの家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知った。主が彼女を御心に留められ(ザーカル)、

ルカ23:42でも「覚える」が重要な言葉として用いられている。
ルカ 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
ここで思い出して下さいと言っているギリシャ語は、ヘブル語に直すとザーカルとなる。
十字架にかけられた強盗が主イエスに向かって、私を覚えて(思い出して)下さいと祈っている。これは、救いを意味する言葉。
私の個人の体験ですが、神に覚えていただいた原点は、「N君を覚えてください」という祈りを毎日のように献げてくれた中高科の教師であった。
わたしの名が、神に覚えられ、救いに預かり、献身して奉仕をしている。
神に覚えていただいたことが、私の原点。
私たちも人々の名をあげ「誰々さんを覚えて下さい」という祈りを献げたい。