2018年10月7日の説教要約 「神は気前がいい」

2018年10月7日の説教要約
  「神は気前がいい」   中道由子牧師
≪自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じよう支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。≫ 
                   マタイ20章1〜16節
                                            
本日読んでいただきました聖書の箇所には、イエス様の天国の喩えが書かれています。
ポイントをお出しする前にこの例話はひとつのお言葉に挟まれて語られています。
19;30「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と。
20:16「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」に挟まれています。
1節に「天の国は」こういうところ、と書かれていますが、実はこのイエス様の話は19;23から続いているのです。「イエスは弟子たちに言われた、『はっきり言っておく。・・・」。ここからイエス様は弟子たちに語っておられることが分かります。話題は「天の国」で20章ではぶどう園にたとえられています。
主人は労働者と一日1デナリの約束をします。1デナリは当時の一日の賃金に値するそうです。しかも1デナリの賃金は当時のローマ兵士の一日の賃金と同じだったそうです。
そしてここに9時、12時、3時、5時に雇われる人が出てきます。
イスラエルの一日は、夕方の6時から始まります。そして、夕方の6時までが一日です。ここには夕方5時頃から雇われる人が出てきます。5時頃に雇われたのでは6時まで1時間しかありません。1時間しかないのにそんな雇い方をするのは現実的だろうか?と疑問に思います。ところがこういうことは結構あったらしいのです。ぶどうの熟したすぐ後に、雨期がやってくる。それで雨期の来ないうちに大急ぎでぶどうを取り入れなければならなかった、ぶどうが腐るからです。そのために、猫の手も借りたいほどの忙しさで、たとえ1時間であっても手伝ってくれる人があれば、誰彼構わず頼んだと言うのです。

1,何故先の者が後に?
3節に「他の人が何もせずに立っているのを見た」とあります。戦後日本でも大阪や東京のある地域では、自分たちを雇いに来る人を待って、群がる場所があったそうです。
その人たちは「立ちんぼ」と呼ばれていました。「誰か雇ってくれないか」と雇い主を求めて立っているのです。
その日1番目に選ばれた人たちはどんなに嬉しかったでしょうか?ほっとしたと思いますね。まず今日1日は食べはぐれがないからです。妻にも子にも飢えさせずにすむ。当時の労働者は奴隷よりもその日の暮らしに困っていたようです。奴隷たちにはとにかく主人がいます。主人たちは自分のものである奴隷を飢えさせはしないからです。その意味では生活は安定していました。けれど労働者たちはそうではありませんでした。
朝一番の人たちは一日汗を流して働きました。そしてやっと一日の仕事が終わって賃金をもらえるのです。8節を見て下さい。「さて、夕方になって・・・労働者たちを呼びなさい。そして、最後に来た人々からはじめて順々に最初に来た人々に渡るように賃金を払ってやりなさい」。ちょっと待って下さい。違うでしょ。普通最初に来て一日働いた人からもらえるのが常識でしょう。むっとします。だけどもしかしたら1デナリ以上くれるのかも?最後から来た人から支払われるのですからかなり長い間、列に並んで待ったわけです。そして期待に反して同じ1デナリでした。どうでしょう?この人たちが11節で文句を言ったことは世の中では当たり前です。
しかしこの主人は13節で「友よ、私は「あなたに対して」不正をしていない。あなたは私と1デナリの約束をしたではないか。」と。そう言われればそうだけど・・・。
  このたとえは弟子たちに語られたと初めに申しあげましたので、先の者は弟子たちであるという解釈をとりたいと思います。彼らにとってはイエス様の為に近くで仕え、寝食共にしているのです。他の人たちと同じに扱ってもらいたくない、気持ちもあったでしょう。そんな中で後から主を信じる者に対する見下した思いがあったのではないかと思われます。同じ章の20〜28節の記事を見ていただけるとわかります(20、21節)。なんと不遜な願望をもっていることでしょうか。主は弟子たちにご自分の心のうちを開いて指導されています。
23〜28節ここで主は弟子たちに主の弟子たる者の生き方を教えておられます。
「仕える人になること」、「僕として生きること」、それは決して楽な道ではないでしょう。
1時間働いて1デナリもらって喜んでいるだけでなく、主人の心のうちをわかる人になってほしい。主の十字架を一緒に負って皆が神の国に入ることを喜びとする人になってほしい、それこそが先のものに与えられた特別な恵みなのです。
マタイ19章27節でペトロはイエス様に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」と言った後イエス様は、29節で「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てたものは皆その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」と言われました。
 先の者は、同じ永遠の命、天の国の約束だけではなく、百倍の報いを受けます。
アブラハムに対して、神様が「あなたを祝福の基とする」と言われ、その祝福が代々まで及びます。

2,後の者に与えられる恵み
最後に雇われた人たちはどんなに不安な思いを持って、しかし辛抱強く立っていたことでしょうか。雇われた時はどんなに嬉しかったことでしょう。「今頃やって来て」という先の者たちの冷ややかなまなざしをものともせず一生懸命彼らも感謝をもって働きました。主人が後に来た人たちに同じ賃金を支払ったのは単に労働時間の1時間だけではなく、雇い主をずっと夕方5時まで立って待っていた労苦を思いやったに違いありません。
天国すなわち神の国とは、朝から晩まで雇われるかどうかも分からないのに、絶望せずにずっと立っていたこの後の人が歓迎される場所なのであります。
私たちの人生が84歳までだとすると人生の9時は31歳、12時は42歳、3時は52歳、5時は60歳になります。そうあまり変わらないということがわかりました。
人生の初期に神を信じた人は、自分はよく主に仕えたと思っているかもしれません。
弟子たちは当然「5時から男」ではないと自分たちのことを思ったでしょう。私たちはこのように傲慢に陥りやすいものです。
ルカ23;39〜43には十字架にかけられた犯罪人の一人が主を信じる告白をして天国に入る救いの恵みをいただいています。
人生の最後の瞬間であっても主は同じ恵みを下さいます。この救いの恵みをいただくのに遠慮はいりません。先の者と同じ神の国に入る特権をいただけるのです。

3,神の気前よさ
神の国は労働と賃金のギブアンドテイクではありません。このどこまでもよくしてやりたいという主人の胸先三寸にかかっているのです。15節「自分のものを自分がしたいようにしてはいけないのか。それとも、わたしの気前の良さをねたむのか。」つまり「恵もうとする者をめぐみ、憐れもうとする者を憐れむ」のです。この「神の気前よさ」こそが「神の救いの恵み」なのであります。
エフェソの信徒への手紙2章8、9節「事実、あなたがたは恵みにより、信仰によって救われたのです。このことは、自らの力によるものではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
私たちは神の恵みにより憐れみにより救われたのです。しかし、それは決してただではありませんでした。
今日の例えの直後に出てくるのはマタイ20;17〜19です。「イエスエルサレムに上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。」
何を話されたか?ここにはイエス・キリストの十字架と復活の予告がされています。
神が気前がいいのはご自分がその代価を払って下さっているからです。
だから気前よくみんなにこの救いの恵みをあげたいのです。
神様はおおらかなお方です。
そして神様は先のものが祈り願った祈りを忘れずにいて、後のものにも同じ恵みを下さいます。おおらかで気前のいい神様は、私たちに同じ救いの恵みをくださるのです。