2022年7月3日の説教要約 「わたしは命のパンである」

2022年7月3日の説教要約
 「わたしは命のパンである」  中道由子牧師 
  《イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して                           

   飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」》

                   (ヨハネによる福音書6章24~40節)

1.朽ちない食物のために

 コロナ下で教会で一緒に愛餐会が持てなくなり、本当に寂しい思いがしています。

22節からは五千人の給食の奇跡について、イエス様が本当に示したい真理を語り始められます。群衆たちはイエス様を捜しに来ました。

彼らが熱心にイエス様の後を追っているのは、あくまでも経済的な必要を満たす方として求めていたのです。

エス様は次の言葉で彼らに心の方向転換をするように求めています。

27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

すると、28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言う彼らの態度には、ユダヤ人特有の律法主義的な姿勢が見えてきています。

しかしイエス様は、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とお答えになり、イエスに信頼して従って行く生き方に徹することだと示されます。

ユダヤ人にはイエスを信じるというその一歩が、何としても踏み出せないのです。

さらに彼らがイエス様に願ったことは、30節「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」と。

五千人の給食の奇跡を目撃したばかりでしたが、それ以上のしるしを見ないと納得できないと言っているのです。

ここで彼らは、旧約の出エジプトの後、荒野でイスラエルの民を養ったマナの奇跡を引き合いにだして、自分たちの前でモーセより大いなる奇跡をおこなって見せてください、と求めているのです。なんと不遜な態度でしょうか。

エス様と民との会話の中で、イエス様は彼らの発言を訂正なさいます。

まず、マナを与えたのはモーセではなく、神であることです。

神こそ祝福と恵みの根源であって、神がモーセを通してマナをもってイスラエルの民を養われたのです。

本日は鵠沼教会の創立68周年礼拝です。

1954年7月に警察官として勤務しておられた坂倉先生が、牧会に専念されるために警察をおやめになった年です。坂倉先生は文字通り朽ちない食物のために労されました。

 

2.いのちのパンであるイエス

 2006年のリビングライフ1月20日に「米のご飯の三つの意味」という黙想エッセイがありました。日本人と同じお米を食べる韓国人らしい切り口で書いておられます。

 「イエス様は米のご飯(いのちのパン)なのですが、米のご飯には次のような三つの霊的な意味が込められています。

(1)米のご飯は必須の食べ物です。米のご飯は絶対に贅沢品ではありません。米のご飯は食べても、食べても食べなくてもよいものではありません。私たちが生存するのに必須のものです。ですから、米のご飯を食べることは自慢にはなりません。イエス様は私たちの人生のアクセサリーではないということです。いてもいなくてもよい存在ではなく、私たちの人生を保つのに必須の方だということです。

(2)イエス様が米のご飯だという意味は、全ての人の口に合う食べ物だと言うことです。ある人は塩辛い食べ物を好みません。また、ある人は肉が食べられません。しかし、米のご飯を嫌う人はいないでしょう。

(3)米のご飯は毎日食べる食べ物です。これは、イエス様との交わりも1日も絶えることなく毎日なされなければならないことを私たちに示しています。」

御子なる神はただの人間になりきられた。それが神の意志だったからです。

しかもそれは人類を救うための唯一の道でした。

人類を愛されたがゆえに、そうならざるを得なかった神の受肉の道でした。

 

3.イエスの血と肉

6章52節「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」

と彼らの間で議論が起こったのです。

それに対してイエス様は、53節、54節で「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言われた。

エス様の肉を食べるというのは、人の肉を食らうという印象を与えるだけでなく、血を食することが堅く禁じられていたユダヤ人にとって大きな躓きでありました。

エス様のこの言葉に弟子たちの多くの者もつまずいたのです。

60節「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言って

66節「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

さらにイエス様は12弟子に向かって、67節「あなたがたも離れて行きたいか」と問われる。シモン・ペテロは素晴らしい応答をしています。

68節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。」

誰でも「先生、あなたのところにいたい。」「先生の元にいたい」と言ってもらいたい人間的な思いがあります。イエス様はそのような人間的な思いにはすでに死んでおられた。

この真のパンを食べる者、すなわちイエス・キリストを心の内に受け入れる者こそが永遠の命に生きると説かれたのです。