2021年8月22日の説経要約 「柔和な者の幸い」

2021年8月22日の説経要約

                        「柔和な者の幸い」  中道善次牧師

                                           ≪マタイ 5章5節≫

 

山上の説教の八福の教えの3番目、これを私たちは「柔和な者は幸いである」と記憶してまいりましたが、協会共同訳では「へりくだった人々は幸いである」となっております。

他の日本語聖書を調べてみました。新共同訳は「柔和」、新改訳2017も「柔和」であります。

また協会共同訳の注には別訳として「柔和」があります。逆に、新改訳2017の注には、「あるいは、へりくだった者」とあります。

さらにこの言葉は、詩篇37編11節の言葉からの引用であると言われております。

詩 37:11 苦しむ人が地を受け継ぐ。彼らは豊かな平和を楽しむ。

口語訳では、柔和な者が地を受け継ぐとなっていましたが、協会共同訳では「苦しむ者が地を受け継ぐ」となっております。

これらのことからわかることは、柔和、また、へりくだったと訳されている言葉には、大変多くの意味が含まれているのであります。

調べてみて、わかった範囲だけでも、次のような翻訳の可能性があります。

優しさ、優しさの関連で言うと、神の優しさに望みをかける

怒らない、自分を主張しない、肘を張らない

自分の力を使わないで、神に全てをゆだねること

謙遜:何かを学ぶことが出来る謙遜であります。また、赦すことを学ぶことの出来る謙遜

人を安らかな気持ちにさせること

踏みつけられても折れないしなやかさ

これらをどのようにまとめて語ろうかと考えたのですが、柔和な人といわれている聖書の人物を取り上げて学ぶことにしました。それは旧約聖書モーセであり、私たちの救い主イエス様であります。

 

1、 柔和なモーセの失敗

モーセ出エジプトを成し遂げ、60万人のイスラエル人を荒れ野に連れ出しました。そして40年間、荒れ野の旅を導きました。

そのモーセの姿を、民数12:3は次のように記します。

民 12:3 モーセは、この地上の誰よりも謙遜な人であった。(協会共同訳)

民 12:3 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。(口語訳)

ここからわかることは、モーセは柔和な人物です。謙遜な人物です。

民数12章では、次のような物語が書かれております。一緒に出エジプトの働きをしてきた姉ミリアムと兄アロンから非難されたのです。それはモーセが、外国人の奥さんをもらったことについてであります。

それだけでなく、兄と姉はモーセだけが特別に用いられることにねたみを起こし、モーセだけが神の言葉を取り次ぐのではない。自分たちにも出来ると言ったのです。(民12:1~2、表示省略)

この非難に対して、神はモーセを弁護されたのです。そしてモーセを非難したミリアムは規定の病にかかってしまったのです。

アロンは、モーセを非難したことを悔い改めました。(民12:11~13、表示省略)

モーセは、ミリアムのために執り成しの祈りを献げたのです。

人から非難をされても、怒らない。自分を主張しないで、神様にこのことをお任せしたのです。

ところが柔和なモーセが、柔和さを失った唯一の出来事がありました。それが民数記20章にあります「メリバの水」の出来事でした。

それまでイスラエルの民は何度もモーセにつぶやき、その度に、モーセは主に祈り、彼らの必要を満たし、また、問題を解決してきました。ところが、ついにモーセは怒ったのです。怒りを表したのです。そして、自分の力を行使したのです。謙遜を失い、柔和を失ったのです。(民20:10~11、表示省略)

岩を打ちたたき、水を出した。これは、柔和で謙遜なモーセの失敗でした。

感情的になって怒ってはならない。私の友人が、奉仕していた教会の牧師先生からいつも言われたことを分かち合ってくれました。何があっても主の僕は怒ってはいけない。

御霊の実は、柔和とあります。私たちも、聖霊によって、柔和や謙遜を身につけさせていただきたい。

 

2、イエスの柔和

マタイ福音書では二箇所、イエス様が柔和な御方であることが記されています。

マタ 11:29 私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。

マタ 21:5 「シオンの娘に告げよ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。へりくだって、ろばに乗り 荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」

エス様自ら、「自分は柔和な者で、へりくだった者だ」と言っておられるのです。

またエルサレムに入城するとき、柔和な御方として、謙遜な御方として、ロバの子に乗られたのです。

エルサレムにイエス様が入られる時、多くの人々の期待は、力の行使でありました。メシヤとして、ローマの政府を打ち破り、神の国を樹立することでした。

しかしイエスは力を行使しなかったのです。そのシンボルとしてロバに乗ったのです。

マタイ11章の柔和ですが、この箇所は、弟子たちへの励ましの言葉の一部であります。

一生懸命福音を伝えても、人々は悔い改めなかった。そのような失望感を覚えている弟子たちへの言葉として語られたのが、「重荷を負って苦労している者、私のもとに来なさい、あなた方を休ませてあげよう」であります。

エス様はここで、私のところに来て、柔和と謙遜を学びなさいと言われたのです。

それはどのようなことでありましょう。

エス様から学ぶべき謙遜と柔和。それは思い通りにならなくても、心が折れないということです。

ある国で奉仕していた宣教師は、次のように分かち合ってくれました。熱心な宣教師であっても、思い通りに宣教の門戸が開かれないと、気持ちが折れてしまう。そして、もうここでの宣教は無理だと言って本国に帰って行く。

彼は、熱くても折れないこころ、踏みつけられても倒れないしなやかな心を持たなければいけないと勧めてくれました。それが、柔和の説明の一つ、踏みつけられても折れないしなやかさであります。

 

3、人々に安らぎをもたらす

エスと一緒に歩む時、私たちは柔和を学ぶのです。柔和を身につけることが出来るのです。

その結果、魂に安らぎが得られる。そのようにイエスはマタイ11:29でおっしゃっておられます。

それは重荷が何もなくなって楽になったということではないのです。

マタ 11:30 私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

重荷を運び続けるのですが、イエス様が一緒に人生の荷を負ってくださることで、その重荷が一人で担うよりも軽くなるのです。運びやすくなるのです。

それと同じ事が、私たちと接する人々にも起こることを私は思うのです。

クリスチャンが、自分たちだけが平安を得て生きるのでなく、周りの人々にも「ほっとする平安」を与える存在であるのです。

自分はまだクリスチャンになっていないけど、クリスチャンである家族から平安が、魂の安らぎが与えられている。そのような方がいると思います。

柔和な者は幸いである。自分たちが神様からいただいている祝福を、この地に住む周りの人々に分け与えるような存在とさせていただきたいと思います。