2021年9月12日の説教要約 「憐れみ深い人々は幸い」

2021年9月12日の説教要約

                    「憐れみ深い人々は幸い」   中道善次牧師

                                        ≪マタイ 5章7節≫

 

1、憐れみとは赦しのこと

ルカ福音書18:9~14には「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえがあります。

ファリサイ派の人は、自分の敬虔さを自慢して祈ります。

しかし徴税人は、「目を天に上げようともせず」祈ります。天を仰いで祈るのが当時のユダヤ教の祈りのスタイルでしたが、彼にはそれができなかったのです。また、「胸を打ちながら」というのは、激しい悲しみの姿勢であります。そして、彼はただ一言「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈りました。

興味深いことですが、「憐れんでください」を口語訳聖書では「おゆるし下さい」となっております。

新共同訳も、新改訳2017も「あわれんでください」なのです。

しかし「憐れんでください」も「おゆるしください」のいずれも、原文のニュアンスを的確に伝えきれていないのです。ここでは原文ギリシア語は「ヒラスコマイ」という動詞の受身形が使われています。

この言葉の名詞形が使われているのが、ローマ3:25、「神はこのイエスを、真実による、またその血による贖いの座とされました。それは、これまでに犯されてきた罪を見逃して、ご自身の義を示すためでした。」です。

「贖いの座」はヒラステリオンです。ヒラスコマイは、受け身の動詞形なのです。

旧約聖書の時代、人々は犠牲の動物を神にささげ、罪のあがないを祈りました。年に一回、贖いの日というのがありました。大祭司が神殿の奥の至聖所に入って、契約の箱の上、つまり、ふたの部分に携えていった動物の血を注ぎかけて罪の赦しを祈るのです。

私を憐れんでください。私を赦して下さい。その祈りの中で、徴税人が思い描いていたのは、贖いの座だったのです。蓋の上に血が流されて、罪の赦しが祈られることでした。

彼ら二人の祈りを聞いて、イエス様がおっしゃった。神に義とされたのはファリサイ派ではなく、徴税人なのだ。

そこで覚えていただいたい大切な言葉があります。

ヤコ2:13 憐れみは裁きに打ち勝つのです。言葉を換えると、赦しは裁きに打ち勝つのです。

ユダヤ人たちは、イエスを裁いたのです。そして十字架につけたのです。

しかしイエスは十字架の上で、自分たちを裁く人々に向かって赦しを祈ったのです。

カトリックのミサでよく使われるラテン語の言葉があります。

それは、キリエ・エレイソンです。日本語の意味は、主よ、憐れんでください、です。

私たちが主の前に出るときにも、キリエ・エレイソン。主よ、憐れみたまえという祈りを大切にしたいと思います。

 

2、憐れみには具体的な行動が伴う

憐れみには少し言葉を変えると「施し」と表現することが出来ることです。

思い起こした聖書の言葉があります。ヤコブ2章です。ここには、信仰があると言いながら、言葉だけで何もしない人が書かれています。

ヤコ 2:15 もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、

ヤコ 2:16 あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょう。

この背景にあるのがユダヤ的な考えです。何度か申し上げましたが、ヘブライ語には「感謝する」という言葉がないのです。より正確に言うなら、「感謝します」と口先だけで成立する感謝という考えがないのです。

ヘブライ語の言葉を表す単語「ダバル」は、「出来事」という意味があります。

神が天地創造をされたとき、「光あれ」と言われたら「光」が出来たということであります。

それで、ユダヤの人々は、一度口に出した祈りや神の前の誓いは、取り消すことが出来ないもの、つまり、出来事と同じと考えたのです。

私たちは「かわいそうだ」と思うことがあります。そして心が動かされます。しかしそこで留まるとしたら、それは聖書が言う憐れみではないのです。憐れみとは、かわいそうだという感情ではなく、人との関わり方を意味する言葉であるのです。

もし私たちが、ある人たちに同情を寄せることがあるなら、それは援助の手をさしのべることになってゆくのです。

それをしたのが、よきサマリヤ人でした。(ルカ10:30~37、引用は省略します)

憐れみとは、近寄り、介抱し、家畜にのせ、宿屋に連れて行き、費用を負担する具体的な行動のことです。

助けが必要な人に関わりを持つ。そのような私たちでありたいと願います。

 

3、傷つくことを恐れない

「憐れみ深い人は幸いである」という準備として、ある先生の説教を読んでおりました。ある小説家の方を紹介されたのです。有名な小説家なのですが、奥様から言わせると憐れみの情がない人だ。その具体的なこととして、人と関わろうとしない。人と関わることを避けている。人と関わると傷つくことがあるからです。

オリビア・ハッセーが主演した「マザー・テレサ」という題の映画を見ました。が放映され、それを見たことです。

この映画では、なりふり構わず貧しい人々を助けるマザー・テレサがいたのです。市場を回り、売り物にならないような野菜をただで分けてもらう。それは厚かましいような姿であります。そして孤児院に食べ物を持ち帰る。今日はこれだけの寄付を集めたよ。神様は私たちの必要を満たしてくださる。

また頑固なマザー・テレサの姿も描かれていました。

最初は修道会から、カルカッタの町へ出て活動する許可が下りない。次に自分の宣教会を立ち上げるときにもバチカンからの了解をえるのに大変だった。でも頑としてあきらめようとしないのです。

次に数々の困難に立ち向かうマザー・テレサが描かれていました。

ある宗教寺院を買い取って、死を待つ人々の家を作ったのです。売買は成立したのですが、その宗教団体に属し、そこに出入りしていた信者たちから、石を投げられ、出て行けと言われるのです。お前はこの場所で、死を待つ人々を回心させるつもりだと責められたのです。彼女は穏やかな言葉で、人々を納得させるのです。

資金難にも何度も見舞われるのです。ある時には、高額な献金をしてくださった方のお金が不正な手段で手に入れたものである。報道関係者が鬼の首を取ったように取材するのです。マザー・テレサは、あなたたちがそこまでおっしゃるのなら、全てそれをお返しします。そして着いてきなさいとカメラマンにいうのです。そしてテレビカメラに映し出されたのは、孤児院で生活する子どもたちです。これがあのお金で建てた施設です。これをあなたにお返ししますと言いました。

マザー・テレサは、屈しない。折れない。いやになって投げ出さない。何よりも人々を愛することを、憐れみの行為を続けることをやめないのです。

人を愛する、憐れむ、施しをする。そうすると、必ずといっていいほど、批判を受けます。同じキリスト者からも理解を得られないことが多くあります。また愛してお世話をしたのに、裏切られるということがあります。

傷つくことを恐れるから、人と深く関わろうとしない。それが、説教者が紹介していた小説家のことでありました。第二ポイントで私は「よきサマリヤ人」のことを紹介しました

サマリヤ人は、憐れみを行動に移したのです。可哀想に思っただけでなく、瀕死のユダヤ人を助けたのです。

しかしその行動は、サマリヤ人からもユダヤ人からも批判を受ける可能性があったのです。

もしかしたら助けてもらった人から、何の「お礼」もなかったかも知れません。彼が、元気になって、サマリヤ人が戻ってくる前に、自分の家に帰ったかも知れない。

私たちは、愛の行為をして、憐れみの行為をして、裏切られたり、傷ついたりすることがあるかもしれません。もう傷つきたくない。だから関わりを持つことを最小限にしておこうと思うかもしれません。

しかしイエス様はおっしゃるのです。「憐れみ深い人々は幸いである」と。