2019年2月17日の説教要約 「この偉大なる愛」

2019217日の説教要約

    「この偉大なる愛」    中道由子牧師

≪それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。≫      (コリントの信徒への手紙一 13章1~13節)

 

今日の聖書箇所は、愛の賛歌とも言われる結婚式によく開かれる個所でもあります。

しかし、この13章の前後の章を読んでいくとき、ここは結婚式のために書かれたわけではないことは明らかです。前後の12章、14章と関連があります。13章は何が書かれているでしょうか。ここには教会の姿が書かれております。

 説教のポイント

Ⅰ.賜物よりも愛、 Ⅱ.愛の賛歌、 Ⅲ.完全な愛

 

Ⅰ.賜物よりも愛

コリント人への第一の手紙は、使徒パウロが紀元52年、53年頃にエペソからコリント教会に書き送った手紙です。

コリント教会は聖霊の賜物が豊かな教会でした。でも、愛が欠けていたために教会の秩序が崩れていました。13章に愛の教えが位置されているのは、12章、14章の聖霊の賜物との関係があるからです。自分の賜物が他の人の賜物よりも重要だと主張する人がいました。特に異言の賜物を与えられた人々が、異言は聖さと成熟のしるしであると勘違いをしていたのです。コリント人の教会に足りないのは、知識ではなく愛だったのです。

パウロは12章14~27節でそれぞれの賜物にはそれなりの役割があるとして、身体の譬えを挙げています。

指と頭は離れたところにあります。しかし、指の先を切っても、痛みは末端神経を通って脳に届きます。そして、指の先だけでなく、身体全体に痛みを感じ、ある肢体は指先を庇(かば)う役目をします。これと同じように、キリストの体なる教会は、誰かが悲しみ、痛みを覚える時、共に痛みを覚え、祈る共同体なのです。

もう一つ、体の例えからの教訓です。温泉に身体全体が浸からなくても、足湯で足だけ温まっても、不思議に身体全体がぽかぽかと温かく感じます。人間の身体は心臓を通して血液を全身に送り出しているのですが、足は一番心臓から遠いのです。しかし、足は第二の心臓と言われるほどたくさんの神経が通っていると言われます。足湯に浸かり、足が温められることで身体全体の血行が促進されていくのです。それと同じように、キリストの体なる教会では、一人の人の喜びが、教会全体の喜びとなってゆくのです。

12章31節で「最もすぐれた道」「更に大いなる賜物」とパウロが述べているのは、いうまでもなく「愛」です。パウロは続く13章で愛を語ります。パウロは、どんな賜物よりも愛が大切で、最も美しいと言っています。どうしてでしょうか?

この愛がなければ、どんなに賜物を用いても、教会を傷つけ、苦しめるからです。

13章1節では、異言の賜物の用い方を述べます。愛によって秩序正しく異言の賜物を用い、他の人の迷惑にならないように気をつけなければなりません。どんなに心燃やされて語ったとしても愛がない異言は自己満足に過ぎません。

2節の預言や知識の言葉とは、12章8と10節に出てきた賜物のことです。また、山を移すほどの強い信仰とは、特別な信仰の賜物で、12章9節に出てきます。たとえそのような不思議な言葉の力を持ち、良い教えが語れても、愛がなければ、無に等しい。自分のために熱心にキリスト教の働きをする人がいます。言葉の賜物を用い、不思議を行う賜物を用いてその働きが成功しても、愛がなければ、神の前にゼロだというのです。

3節の「自分の全財産を人に渡しても、自分の体を焼かれるために渡しても」とあります。これはすごいことです。これも賜物だという学者がいます。自主的に貧しくなる賜物と殉教の賜物です。これらの賜物を用いても愛がない場合があるというのです。

名誉を手に入れるために、全財産を貧しい人に与えることが出来ることもあるからです。

また、新共同訳は「誇ろうとして」我が身を死に引き渡すと訳します。1世紀にたくさんのキリスト教信者が殉教していきましたが、殉教者ブームというものが訪れたと歴史書には記されています。殉教者は、天国で高い地位に就くことが出来る、それなら喜んで死んでいこうというものでした。そこまでのことが、愛がなくても出来る、しかし何の役にも立たない、とパウロは言います。

 

Ⅱ.愛の賛歌

4節から8節まで、「愛の賛歌」と言われるところを学びます。

「愛は情け深い」とは優しく親切で、恵み深い態度をとることです。人を使い捨てに

するという言葉があります。戦時中、日本軍は特攻隊として行きだけのガソリンを積ん

で敵の船に突っ込んで行く戦術で、多くの若者が戦死しました。アメリカでは、一人の

パイロットを育てるのに、とても多くの資金とエネルギーを投資して育てます。だから、死なせてはいけないという指示を出していたそうです。そのように人を大切に扱うのです。

「愛は、妬(ねた)まない」。妬みと訳される言葉の一つに、悪い目つきという意味があります。

私たちは人を妬む時、悪い目つきで見る、にらみつけるのです。

「愛は、高ぶらない、自慢しない」。この言葉には、「ほらふき、へつらい」という意味があります。風を送って膨らませるように、内容がないのに、ふーっと息を吹いて膨らませて、大きいもののように見せかけるのです。

5節に、「愛は不作法をしない」。これは、12章23節にある「見劣りがする」と同じ言葉です。見ておられない姿であります。神様が目を背けたくなるような罪を私たちはどれだけ持っているでしょうか。

「愛は、自分の利益を求めない」。関心事が自分のことばかりの人に出会うとうんざりします。リビングバイブルでは、「愛は、自分のやり方を押し通そうとはしません」とあります。歩み寄り、相手の言い分を許容することが出来る態度です。

「愛は、苛立たない」。いらいらしない。自分の思いどおり事が運ばないとイラッとするということはないでしょうか。そのような人がいるだけで平和な空気が乱されます。

「愛は、恨みを抱かない」。新改訳では「人のした悪を思わない」と訳されています。また、「悪を数えない」という直訳があります。私たちは、悪いことをされたことは心の中のノートにちゃんと書きとめてあります。そして、何かあるとそのノートを取り出して相手を責めることがあります。イエス様はその罪のノートを全部十字架の血によって塗り消して下さいました。

6節に、「不義を喜ばないで、真理を喜ぶ」とあります。この個所には、「勝つ」という言葉が使われています。つまり、不義、正しくないことが勝利することを喜ばない、いつも真理が勝利することを喜ぶのです。イエス様はご自分の死を通して、この勝利を勝ち取って下さいました。

7節の「愛は、すべてを忍ぶ」の「忍ぶ」は、覆う、守るとも訳せます。愛は、多く

の罪を覆うのです。イエス様は私たちの罪を覆って下さいました。リビングバイブルで

は、「誰かを愛する人は、どんな犠牲を払っても、誠実であろうとするでしょう」と訳されています。実は、4節の「愛は情け深い」は、英語では ”Love is patiente.”、忍耐、忍ぶという言葉が使われています。ある人は、 ”Love is long suffering.”、「愛とは長く苦しむことだ」と言いました。愛は、その人を愛するために、たくさんの苦しいことがあっても、それを忍ぶのです。

「愛は、すべてを信じる」は、どこまでも人を信頼することです。

エス様の譬(たと)えで、「ぶどう園の農夫」のはなしがあります。ぶどう園の主人が、農夫にぶどう園を任せていました。収穫の時期になったので僕を送ったが、皆袋だたきにされるか、殺されるかでした。この農夫は最後に、自分の息子なら敬ってくれるだろうと、息子を送るのです。そんなお人好しがどこにいるでしょうか。父なる神様はひとり子を送るほど、人を信じてくださる、最高のお人好しなのです。

「愛は、すべてを望む」。もう駄目だと、あきらめない。どんな絶望的な状況でも、明るい方に向かって進むのです。死を打ち破って下さったイエス様がいらっしゃるからです。

「愛は、すべてを耐える」。最後までしっかりと重い荷物であっても運びきるのです。耐えられないような人生の重い荷物も、イエス様が共に担ってくださいます。私たちの人生で一番辛い時、神様は私たちを背負って歩んでいてくださる。愛には、そのような力があるのです。

8節の「愛は決して絶えることがない」は、英語で ”Love never fails.”となっています。愛は、決してなくならない。終わりがない。やがてイエス様が、再臨されます。その時に、天と地が過ぎ去り、新しい天と地がやってきます。そのような時にも、この愛だけが変わらずに、存続し続けるのです。

私たちは学んできた愛に程遠いものです。しかし、この「愛」の本質である「イエス・キリスト」を神様は私たちに与えてくださったのです。

 

Ⅲ.完全な愛

パウロは、預言、異言、知識はすたれる日が来ると言っています。それはこの世が終わり、神の御国では愛だけが存在して、これらの賜物は存在しないからです。

パウロは、賜物の前後関係の中で13章を語っていますが、私はメッセージの中では、「愛」を賜物と表現してきませんでした。聖霊の賜物に関する書物の中には、「愛」を賜物の中に位置づける人もいますが、愛は賜物を越えたものです。もし愛が賜物の一つなら、与えられている人と与えられていない人がいることになります。「私は愛の賜物がないから人を愛さない」とはナンセンスですね。

また「愛」は、御霊の実の中の第一のものであります。ガラテヤ書5章22~23節には、愛、喜び、平和、慈愛、寛容、善意、誠実、柔和、自制とあります。御霊の実の「実」は単数形です。fruitsではなく、fruitなのです。つまり9つの実をすべて結ぶのです。従って、「私には喜びの実はありますが、愛の実はありません」とは言えないのです。ある説教者は、愛の中に、喜び以下のすべてが含まれていると語っています。

そして「愛」とは、イエス・キリスト様に他ならないのです。第二ポイントで、解き明かしました4~8節は、私たちを愛されたイエス・キリスト様のお姿であります。

ある本に、盲人が象を触った話がありました。彼は象の足を触り、「象とは分厚い柱のようだ」と言いました。また鼻を触り、「象とはホースのように長い」、耳を触り、「象とは平たい円盤形をしている」と言ったそうです。象の全体が見えないから、おぼろげながらに想像しているのです。

私たちも同じです。「イエス様は優しい」「イエス様は忍耐深い」「イエス様は真実なお方」。それらはみな私たちのこの地上での経験や限られた知識からそう思うのです。私たちは愛なるイエス様のお姿を、まだほんの少ししか知らないのです。

それは鏡にぼんやり映るようなイエス様に関する知識なのです。どんな地上の知識や経験を持ってしても、イエス様の愛の広さ高さ深さ長さは理解できません。天国に行ったら、イエス様ってどんなお方か顔と顔を合わせはっきりと完全に知ることが出来るのです。

最後に、THE GREATEST IS LOVEの祈りを紹介します。

 

エス様、あなたの所に行きます。

何故なら私は愛のない者だからです。

わたしは自分の中で愛を創り出そうと努力しますが長続きしません。

あなたの愛で満たされるために、あなたの所に行きます。

私のちっぽけな愛に代えて、あなたの深い愛が私に届きますように。

あなたが与えてくださるギフト、御霊の実である愛だけを必要をします。

私が出来ることはこれだけです。

私を造り変え、愛する事が出来るようにしてくださった主の愛を人々に表すだけです。

アーメン