2019年2月10日の説教要約
「民の心をくじかない」 中道善次牧師
<申命記1章20~28節>
今日は、申命記の二回目のメッセージで、申命記1章の記事から学びたいと思います。
① 心くじかれたイスラエル
申命記1章20~28節は、荒野を旅していたイスラエルが、約束の地を偵察したことを振り返って述べている箇所で、民数記13章と14章に記されている物語です。
12人の偵察隊は、カデシ・バルネアから派遣され、約束の地の北から南までくまなく偵察しました。
その中心は、ヘブロンという場所でした。そこで彼らは、二人で担がなければならないほどの大きな房の葡萄を持ち帰りました。これが今日もイスラエルのシンボルになっております。
民 13:23 エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。・・・
彼らは40日間の偵察を終え、帰ってきて報告をしました。
前半は、素晴らしい場所ですという報告でしたが、後半になると、否定的な報告をしました。巨人がいるから、そのような場所を征服することが出来ない。最後には、その地を悪く言いふらしました。
このことを振り返り、モーセは、「心をくじいた」という言葉で述べております。
申命記 1:28 どうして、そんな所に行かねばならないのか。我々の仲間も、そこの住民は我々よりも強くて背が高く、町々は大きく、城壁は天に届くほどで、しかもアナク人の子孫さえも見たと言って、我々の心を挫いたではないか」。
「心を挫く」という表現は、他に、使徒言行録21章でパウロが述べており、また、ヨシュア記にも、エリコの住民の言葉ですが「心は挫け」という表現が出てきます。
ヨシ 2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたがたに立ち向かおうとする者は一人もおりません。
ネヘミヤ記にも、心を挫こうとしている敵の言葉が出てきます。
ネヘ 3:34 彼は仲間とサマリヤの兵士を前にして言った。「この哀れなユダの者どもに、何が出来るか。修復していけにえをささげるつもりなのか。一日で仕上げようとでもいうのか。灰の山から焼け石を拾い出して、生かして使おうとでもいうのか」。
聖書は、神のことが書かれているだけでなく、人間のことが書かれています。人間の気持ちの大切さを聖書は繰り返し語っています。私たちの気持ちが、大丈夫だという気持ちを持っている時と、もう駄目だとくじけそうになる時では全然違うのではないでしょうか。
10人のスパイの不信仰の報告を聞いて、もう駄目だ、そのような気持ちにさせられてしまったのです。これは恐ろしくマイナス効果のある言葉なのです。
その結果40年の荒野の放浪をしてしまったことを忘れてはならないというのです。
心くじけないための処方箋を二つ紹介します。
a.マイナスの言葉を聞き流す
マコ 5:36(口語訳聖書) イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。新共同訳は「聞き流して」を「そばで聞いて」と訳しております。
ここでは、会堂司ヤイロの娘が死にかけており、癒しの祈りをする為に、イエス様が急いでおられたときの話です。使いが来て報告をしたのです。娘さんは亡くなりました。もうイエス様に来ていただく必要がありません。しかしそれに対してイエス様がとられた態度は、「聞き流して」とあります。ある英語訳には、ignore、つまり、無視して、とあります。私たちの心をくじくような不信仰な言葉を聞き流す。心に留めない。そのようなことを、イエス様の姿から学びたいのです。
b.御言葉と一つになる
民数記13章と14章について述べているのがヘブライ4章2節です。
ヘブ 4:2 というのは、わたしたちにも彼らと同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。
この「結び付け」は、英語の聖書では、ハーモナイズ(一致する、調和する)です。偵察に行った12人全てに、約束された御言葉があり、素晴らしい約束の地を実際に見てきました。しかし同時に大きな困難に直面したことも事実であります。御言葉と厳しい現実、この二つの間で、どちらとハーモナイズするかが問われたのであります。
イスラエルは、約束が与えられていたにもかかわらず、御言葉と一致しないで、困難な現実と一致した。それは困難な現実に押しつぶされてしまったのです。その中で、ヨシュアとカレブだけが、御言葉と一つになることができたのです。
② 神の義はくじけない
1993年に開催された「リバイバル甲子園ミッション」で作られた歌の中に「さめよ立ち上がれ」があります。その歌詞の一部を紹介します。
♪さめよ、さめよ、立ち上がれ 私の義は近づいている
さめよ、さめよ、立ち上がれ 私の義はくじけない♪
新共同訳では、翻訳が違うので、口語訳のイザヤ51:6を示します。
イザ 51:6 天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。
「私の義はくじけない」とは、どういう意味でしょうか。
まず問題となるのが私の「義」です。
聖書の中では、義とは神様の救いを表す言葉であります。
イザヤ51:6(口語訳)でも、義と救いが並行して述べられているのです。
わが救いはとこしえに永らえ、
わが義はくじけることがない。
私たちが、イエスを信じて、救われることを、義とされると言います。
では、神様がくじけないとは、どういうことでしょう。
イスラエルは、くじけたのです。くじけたことによって、約束の地に入るための戦いをしなかったのです。無理だと思って、あきらめたのです。
神の義はくじけない。それは神様が諦めないお方だと言うことです。
ある人が救いに預かるためには、いろいろな困難がある、障害がある。しかし神は諦めないのです。
神が諦めない理由、それは神があなたを愛しておられるからです。
コリ1 13:8 愛は決して滅びない。ある英語の訳では、love never gives up とあります。
口語訳の「私の義はくじけない」を新共同訳聖書では、「私の恵みの業が絶えることはない」と訳しているのです。
私たちの救いを決して諦めることのない神の愛に目を留めましょう。