2019年2月3日の説教要約    「平和の子」

201923日の説教要約

   「平和の子」    中道由子牧師

 

≪平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。≫ 

                      (ルカによる福音書10章1~6節)

 

 伝道はみんなでするもの

今日の聖書箇所は、イエス様が72人を選んで遣わされたところです。

ルカによる福音書では、6章でイエス様が12弟子を選ばれたことが書かれています。

8章で主は、神の国の福音を説き伝えながら、町々村々を巡回されました。

その時に、12弟子もお供をしました。イエス様が、神様の愛を説き、困った人を助け、病気を癒し、悪霊から人々を解放された様子を見てきました。

そして、9章になると、「今度はあなた方が伝えるのですよ。」と彼らを派遣されたのです。この10章では、今度は72人を選んで、2人1組にして、近隣の町や村に遣わしたのです、伝道するのは弟子たちだけではない。みんな伝道するのです。

もしこの教会で、皆さんが多くの人に教会に来てもらいたいと思っていても、このことは牧師がすることだ、と思っていたら、この教会はここまでです。なぜなら牧師は一番クリスチャンでない人とのつきあいが薄いからです。誰が一番クリスチャンでない人とのつきあいがありますか?洗礼を受けて間もない人です。

OMSが推奨しているTMセミナーで、W先生ご夫妻は「洗礼を受けたばかりの人はすぐに何をするべきですか?」と質問されて、皆「聖書を読むことです」「祈ることです」「礼拝出席です」「什一献金です」と答えました。先生は「まず、洗礼を受けたことを家族や友達に報告して下さい。そして、その喜びを伝えて下さい。」と言われました。

これが一歩です。クリスチャンになって何年も経っていてももちろん、皆どこかでこのチャンスがあります。

 その中で、私たちは人々をお導きするのに苦労した経験がないでしょうか。ある人は自分の話を聞いてほしいばかりの人です。ある人はいつも問題をもっています。私たちは依存されて、手一杯になってしまうことがあります。神様と教会につなげることが大切です。

そのように備えられている、実に従順な人がいるのです。新共同訳では、「平和の子」と書かれています。

 

2、平和の子のために祈る

神様は私たちの周りに平和の子を用意しておられます。私たちの霊力ばかりを使い果たしてしまう人は平和の子とは言えないでしょう。

TMセミナーの中で、テキストが8冊あるのですが、これが終わらないうちにイエス様を信じると受け入れる人がいます、と報告がされていました。備えられている「平和の子」がいます。ああ、そう考えてみると自分はイエス様を簡単に受け入れた、自分は平和の子だったという人もおられると思います。

 教会員のF姉と私はPTAの仲間でした。ママ友というわけです。お互いの家に子供たちが遊びに行ったことはないと思いますが、共通のお友達のお宅でお茶を飲んでおしゃべりしたことはあったと思います。でも私はF姉に福音を語ったことも教会に誘ったこともありませんでした。別の方で、子供のころ教会に行っていたという人がいて、その人を導こうと教会に誘いました。でもその方を導くことは出来ませんでした。ちょうど、私がPTAの会長をさせていただいていた時、子育ての講演会を開くことになりました。私はクリスチャンの方を講師に呼びたいと提案しました。その講演会の後、F姉んは、鵠沼教会を訪れ、本当に単純にイエス様を信じたのでした。振り返ってみると、彼女は本当に備えられた「平和の子」であったと思います。そのような方が私たちの周りにいるのです。平和の子に出会えるように祈りましょう。

 

3、断られても大丈夫

エス様は、72人を遣わすときに「小羊をオオカミの中に送るようなものである。」と言われました。確かに人を教会に誘っても、空振りすることがあるかもしれません。なんて言われるか、断られるかも知れないと不安になったりすることがあるかもしれません。

人々の平安を祈り、受け入れなかった場合は、その平安は私たちに返ってくる、と約束されているのです。誰かに伝道して、誰かのために祈って、その人が心開かなかったとしてもあなたのせいではありません。受け入れてくれる次の人に当たればいいのです。

37年前、私は日曜日に新宿にある教会に修養生として遣わされていました。ある時、青年会の姉妹が「うちの母の職場のOさんという人が骨肉腫でもう長くないんだけど、K先生にお世話になったことがあるらしく、先生の名前を呼んでる。どうにかならないものか」と言うのです。Oさんのためにお祈りすると、「まずあなたが行きなさい。」と主の声が聞こえる。でも名前と病院名しか知らないのです。ある祝日、駅前でお花を買って出かけました。駅を間違えて、交番で聞いて、駅に着いた頃は夕方になっていました。お花も枯れて買い替えました。病院につくと受付でOさんが入院していることがわかりました。でも、病室に行って、びっくりしました。骨と皮だけの人が苦しそうにあえいでいました。「こんにちは、私はOさんの職場の○○さんのお嬢さんが行っている教会の者です。東京聖書の学生でK先生に聖書を教えてもらっています。」Oさんは苦しい息の中、応答してしばらくK先生の話をしていました。でも福音を語らなくてはならない。

「神様はOさんのために御子イエス。キリストを遣わして下さり、イエス様はOさんの罪のために十字架にかかって死んで下さり、Oさんに永遠の命を与えてくださいます。」

反応はなく、「お祈りしてもいいですか?」と言うと、首を横に振られました。

「じゃあ、K先生が来たら会ってもらえますか?」と言うとうなずかれました。

私はお花を花瓶にさして、帰りました。帰り道、心は敗北感でいっぱいでした。でも約束したのだから、小林先生にお願いをしなければならない。夜、先生のご自宅に電話しました。K先生と個人的に話すのは初めてでした。先生はOさんのことを覚えておられました。けれど「わかった」というだけで、お見舞いに行くとも言われませんでした。

しばらくして学院のチャペルでK先生がメッセージを語られました。福音を語るという内容でした。説教の最後にOさんのことを話されました。一人の修養生がOさんを訪ねたこと。自分に電話をしてきたこと。Oさんを訪ねて、手を握り、「すべてを神様に委ねようね」というと涙を流してうなずかれ、先生の祈りに「アーメン」と答えられたこと。そして、Oさんが数日前に召されたことも語られました。私は顔をあげることができませんでした。失敗だったと思った伝道でした。でも主は無駄にされなかった。

日本の伝道はむずかしい、と言われます。しかし、主は「収穫は多いが働き人が少ない。」と言われる。収穫は備えられているのです。断られてもいいのです。皆さん一人一人にしかできない働きがあります。

 かつて私たちの教会で共に伝道した宣教師が、「この教会が自分にとっては平和の家なのだ」と言いました。だから、彼は7節にあるように、「その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。」の御言葉により私たちの教会の伝道を助けてくれました。宣教師を受け入れる教会は平和の家となります。

私たちの教会が平和の家となりますように。

新しい働き、新しい歩みに期待をして、祈っていきましょう。