2019年6月16日の説教要約 「積極的に待つ」

2019616日の説教要約

   「積極的に待つ」   照内幸代牧師

≪彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。≫               (使徒言行録1章1~14節)

 

導入

 

ペンテコステの出来事というのは、何が何やら分からない内に突然起こって、「いやぁいつの間にか聖霊が下ってさぁ」というものではなく、あらかじめ主イエス様によって預言されていた出来事でした。使徒言行録の1:4に、このように書かれています。

エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

弟子たちは、このペンテコステをただ待っていたのではなく、「待ち望んで」いたのでした。

 

考えてみますと私たちも、今神様からの約束を待っている状態にあります。イエス様が再びいらっしゃる。私たちが復活にあずかる。その時を今待ち望みつつ、信仰生活を歩んでいるのです。このお弟子さんたちの、イエス様を待っていた姿勢というのは、ただじーっと待っていたというのではなく、「積極的に待っていた」と言えます。どのようにして待っていたのでしょうか。それは大きく分けると二つの出来事から分かります。

一つは、祈り。そしてもう一つが、教会を整えることでした。

 

祈ること

8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 

「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」とは大胆な宣告です。しかしこの大胆な宣告を受けた直後にしたことが、祈ることでした。それは弟子たちが主イエス様の先の預言を覚えていたからでしょう。すなわち、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」ということです。

エス様の預言をよく見てみますと、イエス様は順番というものを大切にされたことがよくわかります。エルサレムから、ユダヤサマリアと、段々と土地が広がって行くのです。そしてその前に、「エルサレムで待っている期間」というものがあります。

 

この順序というのが、私たちのクリスチャン生活でも鍵になるのではないかなと思わされることがあります。私の献身の御言葉は第一テサロニケ5:1-3の御言葉でした。この箇所に何が書いてあるかというと、

「主の日は盗人が夜来るようにくる。人々が平和だ無事だと言っている矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが訪れるように、突如として滅びが彼らを襲ってくる。そしてそれから逃れることは決してできない」と書いてあるのです。

こんなわけで、修養生になったばかりのころの私は、修養生活なんてなんでもいいから、11秒でもイエス様を知らない人たちと関わりをもって、イエス様のことを伝えたいと思っていました。でないといつイエス様がやって来るか分かりません。修養生活は回りくどくて無駄な時間のように思っていました。

 

しかし途中で、「この時間は無駄な時間などではない。もっと長く神様のために働く上で、必要な準備の時間なんだ」と気づきました。それ以来、回りくどいと感じていた修養生活を考え直しまして、牧師になるために勉強をするようになりました。修養生活はとりあえず伝道師になる資格を得るための、踏み台のようなところではなくて、もっと長い期間、腰を据えて神様のために働くうえで必要なのだと感じるようになりました。

 

また、祈り備えることに関して、とても素敵なアドバイスを貰ったことがあります。KGKキリスト者学生会)という、大学生クリスチャンのための団体があります。その『学内開拓』というセミナーに出席したときのことです。今総主事をしている大嶋先生がこうおっしゃいました。

 

「大きく祈って、小さく始めなさい」

 

何か新しいことを始めようというとき、大体勢いに任せて先走ってしまう。そして大きな期待をしていたばかりに、上手く行かないととても落ち込んでしまう。だから、大きく祈って、小さく始めなさい。それが、何かを新しく始める秘訣です、というのです。

 

このペンテコステを前にした弟子たちは、聖霊を受けたあと、ユダヤサマリア、更に地の果てにまで出て行こうとしていました。とてつもない計画です。その計画を前にして、まず弟子たちは祈ったのです。祈って、神様から力をいただいたのです。

 

教会を整えること

二つ目に弟子たちが何をしたかというと、それは教会を整えるということでした。15節からペテロの説教が始まりまして、ユダという主イエス様を裏切った弟子が欠けたことを説明しています。主イエス様は、イスラエル12部族になぞらえて、12人の最も信頼する特別な弟子、すなわち使徒を選出していました。その12が欠けて11人になることは、好ましいことではないと教会は考えたのです。そこで、教会は初めから共に行動していた弟子仲間の内から、信頼する二人を選出し、更にくじでその内の一人を決め、ユダを補う使徒として任命しました。

 

これは何を意味するのでしょうか。このあとこの使徒たちも、そしてこの場に集っている弟子たちもバラバラにされていきます。そして福音が全世界に伝わって、主イエス様が預言された通り、地の果てまでキリストの証人となって行くのです。

しかしこの伝道のわざには、整った教会がなければならならなかったのです。この12弟子の中には、いろいろな賜物をもった人たちがいました。しかし伝道するにあたっては、教会が整えられなくてはならなかったのです。個々が好き勝手に伝道して、行きたいところに行って好きなようにすればオッケーというのではなく、確固とした教会があり、そこから使徒として任命されて、この伝道の働きをする必要があったのです。

 

まとめ

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

そういわれて、よっしゃー伝道するぞ!というのも、まぁ勢いがあってよいかもわかりませんが、このペンテコステのメッセージが伝えようとすること、それはあえて待つこと、積極的に待つという姿だと思うのです。

 

この待つということがあるからこそ、私たちは私たちの力ではなく、主の力を受けて、あるいは教会からの力を受けて、イエス様を述べつたえることができます。

 

私たちは今、イエス様からの約束を待っている状態にあります。再びイエス様が来られるとき、そして復活にあずかるときを待ち望んでいます。この待っているときにあって、私たちは神様に祈るという恵、そして教会というプレゼントが神様から与えられています。そして、神様からの聖霊が、教会と私たちを助けていて下さるのです。