2019年6月23日の説教要約 「キリストがあがめられるなら」

2019年6月23日の説教要約

   「キリストがあがめられるなら」   中道由子牧師

 

≪生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことは利益なのです。≫          (フィリピの信徒への手紙1章20、21節)

 

今日の聖書の個所には二つのことが書いてあります。生きるか、死ぬかということです。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、癌で亡くなられました。この方については亡くなるという言葉がふさわしくない感じがします。夫の三浦光代さんも天に召されましたが、長い間、綾子さんのことを通して神様のことを証しておられました。綾子さんが癌になった時、彼女は「神様は私に癌という病をお与えになったほど私を特別に愛してくださっている。」と言われたのです。ちょっと耳を疑う言葉ではありませんか。

人が死を目の前にした時、その人の生きざまが見えてきます。ここで、パウロの本音は、パラダイスで主イエスと共に過ごすことでありました。パウロの個人的な願いは死によって主の身元に行くことが幸せだったでしょう。パウロは主の宣教の働きのゆえに捉えられ、ローマ市民であった彼は告訴したためにローマで監禁されていたのです。実際彼は裁判の結果、死刑になることもありうる身でした。それでも彼は、ローマ皇帝に主を証できたら、自分の人生はもう惜しくないと思っていました。しかし、もし生かされるなら自分が生み出したフィリピの教会の人たちを励ましたいと思っていました。異端と戦って信仰を貫き、教会を守ろうとしている信徒たちをなんとか励ましたい。それがパウロが地上で生きている目的でもありました。そういう意味で、パウロは自分の命を主イエスに委ね切っていたのです。

日本では多くの人たちが命を自ら断ちます。命は自分のものだと勘違いしているのです。命は神様が与えて下さいます。そして、ひとりひとりの命の終わりも神のみが知っておられ、支配しておられるのです。日本人は死を美化しやすいです。そして、自分で決着をつけ始末しようとします。それは、命を授けた神の前に高慢であり、罪となります。  ユダはイエス・キリストを祭司長たちに売って、後で後悔して自らの命を絶ってしまいました。同じように主を裏切ったペトロは、悔い改めて主の働きを全うしました。恥をかいてもことが大切であることを聖書は教えています。中国人のクリスチャンの方が「自分で自分の命を絶つことは恥である。」と話してくれた時、私たち日本人との価値観の違いを感じました。 あるミャンマー人の子が証をしてくれました。「僕はクリスチャンの両親に育てられました。でも、学校では小さいころからいつもいじめられていました。両親は僕を牧師の所に連れて行って祈ってもらいました。牧師先生は僕に聖書の言葉をくれました。『迫害するもののために祈りなさい。』と。僕は無理だと思いました。それから中学になって、いじめはエスカレートしていき、背中に画びょうを突き刺されたり、教科書をびりびりに破られたりしました。僕はもう限界だと思って、牧師先生が言ったことを実行することにしました。」「あなたを迫害するもののために祈りなさい」です。そうしたら不思議にいじめがなくなっていったそうです。ミャンマーの人に底抜けに前向きな生き方に触れました。日本人は限界になると、ひきこもり、自殺を考えます。

 自殺未遂をくりかえす人が、「先生、私はもう死にたい。でも死ねないんです。死のうとしたら怖くなって死ねなかった。私は生きていてもしかたないんです。」と訴えてきました。「ちゃんと生きようよ、ちゃんと生きないとちゃんと死ねないから。」と言って祈りました。私たちの人生が納得のいくものであることを誰もが願います。ここでは神の聖名が崇められる死を迎えるために、神に与えられたこの命を精一杯生きることが書かれています。

三浦綾子さんは、死を迎え自分の目標は、ちゃんと死ぬことだとおっしゃておられました。ちゃんと生きた人だけがそれが言えます。一生懸命生きる、それが命を与えられたものの務めではないでしょうか。そして、人生の最後がいつ訪れるか誰もわからないのですが、その人が生きたように死を迎え神様のもとに召されていきます。

私たちの一生は神の目には本当に短く、歴史の一端にしかすぎません。しかし、神は、私たちをご存知です。いつまでも忘れないでいてくださいます。なぜなら、命をかけるほど愛してくださったからです。

今日はコンサート礼拝で、最後に「You raise me up」を演奏していただきました。ここに出てくる「あなた」はいろいろ解釈できます。私は神様のことだと思って歌っています。

 

When I am down and, oh my soul, so weary

元気がなくて心が疲れたとき

When troubles come and my heart burdened be

トラブルが起こって心が重いとき

Then, I am still and wait here in the silence

私はただじっとして

Until you come and sit awhile with me

あなたがそばに座ってくれるのを待つ

You raise me up, so I can stand on mountains

あなたが力をくれるから、山頂にだって立てる

You raise me up to walk on stormy seas

あなたが元気づけてくれるから、嵐の海の上も歩ける

I am strong, when I am on your shoulders

あなたの肩に寄り掛かっていると、私は強くなれる

You raise me up to more than I can be

あなたのおかげで、私は自分を越えていける

 

イエス・キリストにあって、このように人生を生きてゆけるのです。

そして、死もイエス・キリストと生きることに繋がります。