2019年1月27日の説教要約 「繰り返しの祝福」

2019127日の礼拝説教要約

  「繰り返しの祝福」     中道善次牧師 

申命記64~9節>

 

2018年12月26日から2019年1月4日まで、ミヤンマーカチン州に行ってきました。関係を持っているシタプル教会が50周年、ヨベルの年のお祝いをしました。そこで教えられたことを今日は分かち合いたいと思います。

 

    気前のいい神様

ヨベルの年とは、七回目の安息年のことです。この安息年が7回すぎますと、49年になります。ヨベルの年とは、49年を数えた次の50年目のことであります。

それはレビ記25章8~11節に表現されております。(引用はレビ25:11のみ)

レビ 25:11 五十年目はあなたたちのヨベルの年である。種を蒔くことも、休閑中の畑に生じた穀物を収穫することも、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めることもしてはならない。

ヨベルの年は今までの社会生活を逆転させてしまう、さかさまの現象が起こる。

具体的には、次の4つの大変革・大解放が起こる。

a. 耕作地が2年の休みを得る。種蒔きも収穫も行われない。

b. 奴隷は解放される。

c. 負債が帳消しにされる。

d. 土地が50年前の所有者に戻される。

エスは、ルカ福音書4章で、わたしが来たのは、旧約聖書で告げている破格の祝福・ヨベルの年が来たことだとおっしゃっておられる。

エスのもたらす一番大きな解放は、罪の赦しです。私たちは皆、罪の奴隷でありました。罪の負債を抱えていたのです。そこから解放されて、神様のものとなるのです。そして本当の安息を得るのです。

私たちが、カチン州からヤンゴンに戻る日のことでした。午前中にYMCAのチェックアウトを済ませました。しかし今回は、シタプル教会が宿泊費を負担すると言って、YMCAの宿泊費、しかも5人分全員の分を教会が支払うというのです。わたしはもちろん断りました。しかし彼らは、これはヨベルの実践だ。これを行うことが私たちの教会にとって本当のヨベルなのだ。そう言われたので、受け入れるしかありませんでした。

ぶどう園で働いた人々に1日の賃金を支払うというイエス様の喩えが出てきます。そこでは、夕方5時に雇われた人が、たった1時間しか働いていないのに、1日分の給料をもらったのです。

その時に主人が行った言葉です。

マタ 20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

その神の「気前よさ」を体験することが出来ました。

 

    過去を振り返り未来に向かう

 シタプル教会のヨベルのお祝いの時に、シタプル教会出身者の説教者が説教されました。

50周年とは、過去を振り返り、未来に向かう時である。

未来に向かうために、私たちが忘れるべき事がある。それは過去の罪、それに伴う心の痛みである。

また苦しかった記憶も忘れるべきです(ヨセフの事例)

嫌なことを忘れるだけではありません。何かを成し遂げていたという過去の実績であり、プライド、それもまた忘れるのであります(パウロの事例)

鵠沼教会は今年65周年を迎えます。

忘れるべき事があります。そして前に向かって進むのです。それは宣教です。

特に今年、鵠沼教会が、宣教師を迎え入れ、宣教の拠点となるのです。

 

    毎日の実践が力になる

これから学ぼうとしている申命記は英語では、デュートロノミーと発音します。

その意味は「第二の律法」です。デュートは、「再び」とか「重ねて」という意味の言葉です。

何故繰り返されているか。それは大事なことだからです。聖書は、大事なことは繰り返すのです。

申命記の繰り返しを網羅する事は出来ませんが、大事な繰り返し4つを心に留めたいのです。

第一は「十戒」です。申命記5:6~21にあります。

十戒出エジプトだけでなく申命記にも繰り返されている。

第二は、今日の聖書朗読の中心である「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、主を愛し」であります。申命記6:5にでてくるのと同じような言葉が、13:4や30:6に出てきます。

第三に大事な繰り返しは、「今日」という言葉です。申命記5章6節に「今日」とあります。繰り返し語られる御言葉を「今日」のこととして受け止めなければならないのです。「今日」選びなさいと言う言葉も何度も出てきます。

30:15 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災をあなたの前に置く。

30:16 わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

わたしが毎日のように行っているのは、心をつくし、思いを尽くし、力を尽くし、今日も主を愛します、という祈りです。

この1年、心を込めて、力を込めて、主を愛しますと祈る1年でありたいと思います。