2022年10月30日の説教要約
「主を畏れることが知恵」 中道善次牧師
≪すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて≫
(コヘレト 12章9と13節)
今日聖書朗読で取り上げた「コヘレトの言葉」という聖書はどこにあるのだろう?新共同訳や協会共同訳を使い始めた頃にお感じになったかもしれません。
口語訳聖書では、「コヘレトの言葉」は、「伝道の書」となっていました。日本語としては、この方が親しみあるのですが、「伝道の書」という名称は、かつての私がしたような勘違いをする危険性があります。
救われた間もない頃の私は、「伝道の書」とは、聖書の中に伝道の方法を教えてくれる書物があるのだと思っていました。伝道に燃えていた救われた直後のことでした。そのように期待して読んだのですが、いきなり「空しい」「空しい」という言葉が繰り返されて、こちらが空しくなって、がっかりしたことがあります。
そのような誤解を招かないという点では、新共同訳も協会共同訳も、ヘブライ語をそのままカタカナにした「コヘレト」の方がよいのかもしれません。
では、コヘレトとは誰なのでしょう。どういうことをした人なのでしょう。
コヘレトは、カハルというヘブライ語から出た言葉です。
カハルという名詞、それは「集会」を意味することばです。ですからコヘレトは、集会の指導者を意味します。では、コヘレトは集会でどのような言葉を語ったのでしょう。
それは知恵の言葉であります。
コヘレトは、知恵者を表すのです。ですから聖書の置かれている位置も、知恵文学の中にあります。
知恵の言葉を語るために会衆を集める人、それがコヘレトであります。
1,ソロモンに代わって述べた知恵
コヘレトの言葉の書き出しをお読みします。
1章1~3節です。(引用省略)
次は1章16~18節です。(引用省略)
ここでコヘレトは、ソロモンに成り代わり、語り始めるのです。私は偉大な王であった。その私が悟ったことは次のことだ。苦労しても空しい、知恵と知識を得ても空しい。
2章もソロモンの悟りが続きます。2章1~4と8節(引用省略)。
コヘレト(ソロモン)は言うのです。快楽、喜びも「空しい」。笑いもお酒も大きな事業もお金も側女も空しい。
空しいとは、中身のない空虚なものです。かつての日本で言うなら、空とはバブルです。泡のように膨らみはするが、中身は何もない。ソロモンは、バブルがはじけたかつての日本人と同じ空しさを感じていたのです。物質的なものでは、心が満たされないと。
そこには、伝道者であるコヘレトのメッセージがあるのです。
神様以外のもので心を満たそうとしても空しい。私は、誰よりもそれをやってみたのだ。
そしてコヘレトは、12章で結論を言うのです。12章1と8節(引用省略)
そして13節で結論を言うのです。
コ 12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
大切なことは、若いときに神を信じ、神を畏れて生きることである。
2,神のなさることはすべて美しい
コヘレトの言葉は、3章になると展開が変わるのです。
3章でコヘレトは「時」の問題を扱うのです。
コ 3:1 何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
コ 3:2 生まれる時、死ぬ時。植える時、植えた者を抜く時。・・・
この表現が、8節まで続くのです。
そして私たちの多くが知っている11節の言葉にたどり着くのです。
コ 3:11 神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
コ 3:14 私は知った。神が行うことはすべてとこしえに変ることがなく、加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。
コヘレトは問いかけるのです。
神様が何時、どこで何をなさるか?
神を信じていても、そのすべてを見極めることが出来ない。実に不思議だ。
しかし、神様には神様が定めた時がある。神のなさることは、私たち人間には全て見極めることはできないが、「美しい」と人間は言うしかないのです。
そして神様のなさることをすべて分からなくでもいいのです。
それは私たちが、神様のことを分かったつもりにならないためです。それが神を畏れることであります。
この考えは、3章だけでなく、7章にも出てきます。7章13と14節(引用省略)。
将来何が起こるか、わからない。でもそれでいいのだ。その時、幸せなら幸せを受け止めて、不幸が来る場合、前もってこれを知っていたら耐えられなかったと思う。知らなくてよかった。
そのような中でも告白することが出来る言葉があります。神のなされることはすべて時にかなって美しい。
3,その日の食事を家族と楽しむ知恵
3つ目のコヘレトからのメッセージ、それは、その日を楽しむ、家族との食事、小さな幸せを見つける
それが何度もコヘレトの言葉で出てくるのです。
コ 2:24 人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。
同じような言葉が3章12~13節、5章17~18節、8章15節、9章7と9節(引用省略)。
この話を一度南米の人たちにしたところ、ラテンの人はいつもこれを実践していると笑いました。
では日本人もラテンのように、楽しく日々を過ごせばいいのでしょうか?
ここから、日本人である私たちがいただく教訓が二つあります
第一:小さな楽しみを見つける。それを喜ぶ。毎日、得られる喜び。それが家族との食事です。また、小さな喜びや幸せを見つけることが出来る。温かいお風呂に入るでもいいのです。
第二:一人暮らしの人もいます。前のように食事がおいしくいただけなくなった人もいます。その人たちに、家族と一緒に楽しく食事をしなさいとは言えません。しかしここで言う本質、それは、イエスを信じるときに与えられる喜びは、愛する人とおいしいものを食べる喜びと同じなのだということです。あなたが今、家族でテーブルを囲んで食事が出来ない中であっても、イエスを信じて、それと同じ、それ以上の喜びが与えられているのです。
4,あれもこれもうまくゆく
最後に学びたいことは、「あれもこれも、うまくゆくかもしれない」という実に楽観的なコヘレトの言葉です。空しい、空しいと言っていた虚無的な人のように思えるので、正反対の言葉を言っています。まるで正反対のことを言っている。そこに聖書のメッセージのダイナミックなところがあります。
それが見られるのが、コヘレト11章です。
コ11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
今の努力は空しいかもしれない。すぐに何かよい結果が出ないかもしれない。しかし、将来必ず何かの実を結ぶというのです。実に楽観的であります。
1節の言葉は、教会学校の働きの励ましに使われます。次に、4と6節を読みます。
コ 11:4 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
コ 11:6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、わからないのだから。
ここでもコヘレトは非常に楽観的であります。
物事に慎重になりすぎないようにという教訓が4節です。6節では、結果を気にせず、朝に夕に、一生懸命やりなさい。アレか、これか、ではなく、あれもこれもうまく行くかもしれないと言うのです。なんと楽観的な人でしょう。
この楽観的な出来事が、私たちの関わった伝道で起こったのです。
今年、兼牧教会の一つである秦野教会は20周年を迎えます。
秦野教会は、Jロッジ・カフェと連動して行うことでスタートしました。
しかし、スタートして半年で、秦野教会の働きとJロッジの働きは分けて行うことになりました。
私はJロッジで導かれた人の受け皿として秦野教会があると考えていましたが、そのような方向付けに変化が起こりました。私の中では、理想が壊れました。ところが不思議な導きが起こりました。まず実を結んだのは、Jロッジと茅ヶ崎教会でした。茅ヶ崎教会が受け皿になり、多くの若者が洗礼を受け、教会学校の奉仕をするようになりました。
秦野の方は、Jロッジの祝福より、少し遅れました。しかし会堂を取得しました。気がついたら、あれもこれも、両方ともうまくいったのです。
コヘレトの言葉11章。楽観的に神様に期待する。それが秦野教会とJロッジにおいて起こったのです。
私たちもまた、主の御手を信じて、楽観的に、主の業を進めたいと思います。