2024年1月7日の説教要約  「新しい決断」

2024年1月7日の説教要約

        「新しい決断」  中道由子牧師

 

《十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。》(コリントの信徒への手紙一1章18節)

 

1、宣教の方向転換

使徒言行録18章からは、パウロがコリントの町に伝道に行ったことが書かれています。

コリントはアテネとは対照的な町でした。

コリントの西南にあるアクロコリント山の山頂には、アフロディトという愛の女神の神殿があったそうです。恐ろしいことにここは売春センターだったのです。

ここには千人もの売春婦がいて、巡礼に来た人々が群がっていたと言われます。

「コリント式」と言う語は長い間性的不道徳の意味に使われえていました。

パウロはこの不道徳なポルノの町へ足を踏み入れました。

神はここに「わたしの民が大勢いる」と言われるからです。

コリントの信徒への手紙一2章3節には、パウロがコリントに行った時、自分は衰弱し、恐れ、不安であったと述べているのです。

それはコリントの前に訪れたアテネにおける伝道がうまく行かなかったことが原因であるといわれています。耳を傾けていた大勢の人々が、復活の話を聞いたら、スイッチがオフになって、去ってしまったのです。

ギリシャでは、死後の世界について、「霊魂の不滅」という考えがありました。ギリシャの人々は、肉体は悪である、目に見える物質は悪であるという考えを持っていました。

そして霊的なものは善とだという考えです。

死ぬと言うことは、肉体の牢獄から霊魂が解放されることであり、ありがたいこと、そのような考え方の人々に対して、イエス様を信じたら、復活することができる。

つまりもう一度、彼らにとって悪である肉体をいただくことになるのです。

肉体からの解放を願っていたギリシャ人にとって復活はナンセンスだったのです。

パウロは、この人々の反応によって大きな挫折を経験して、ヨーロッパの都市で、どのようにして伝道していったらいいのだろうと途方に暮れながら、隣町コリントに行きました。

そのコリントで、パウロ聖霊の導きをいただき、大きな方向転換をしたのです。

ギリシャ人には、知恵を使って語っても駄目だ。復活というメッセージも彼らの心を動かさない。十字架を語ろう。知恵がない愚かしい話だと思われても、十字架を語ろう。

そのようにパウロは決心をして、コリントで伝道したのです。そう決心したパウロを神は祝福し、コリントで1年半にわたって伝道を続けることができたのです。長期にわたる伝道はパウロにとって初めてでした。そしてコリント教会が出来たのです。

神様は十字架のメッセージを用いて、コリントの人々を救いに導き、家の教会が出来ていきました。

 

2、十字架のことば

コリントでパウロは、ユダヤ人とギリシャ人あるいは異邦人が求めることを引き合いに出して、彼らにとってキリストの十字架がどのように見えるのかを話します。

ユダヤ人は、しるしを追及しました。目に見えるものによって、目に見えない神が生きておられることを知ろうとしていました。モーセによって、紅海が分かれたこと。マナが天から降ったこと。また、ヨシュアにおいて、ヨルダン川がせき止められました。日がとどまりました。エリヤやエリシャをとおして、数々の奇蹟としるしが行なわれました。ですから、ユダヤ人は、これらのしるしによって、生ける神とメシヤを知ろうとしたのです。

その一方、ギリシャ人は知恵を求めます。この世界を動かしている根源について考えました。なぜ、今あることがそうなっているのかについて答えを求めました。

しるしではなく、今あるものがなんであるのかについて知ろうとしたのです。

けれども、ユダヤ人にしても、ギリシャ人にしても、十字架につけられたキリストは、彼らが求めているものを満足させることはありません。

キリストの十字架は、神のしるしなどとは、到底思えない代物です。

だからユダヤ人はつまずきました。彼らは、メシヤが来られて、すべてのものを建て直し、神の国を立ててくださると信じていました。

エスが現われて、奇蹟を行なわれていたので、ユダヤ人たちはこのイエスローマ帝国を倒して、神の国を始められると期待したのです。ところが、ローマを倒すどころか、ローマ人によって死刑に処せられてしまったので、彼らはつまずいたのです。

その一方ギリシャ人にとっては、キリストの十字架は愚かでした。ギリシャ人にとって、神はどこか遠くにいて、人間の世界から離れて存在していなければなりませんでした。

隔絶した存在ならば、人間から隔絶していなければならないのです。

けれども、神は人間の世界に深く関わりを持たれ、そしてなんと人の姿をとって現われました。全能者であるはずのキリストが十字架につけられるなど、彼らの論理では到底、受け入れられるものではなかったのです。

十字架ほど神の力を感じないものはない。愚かで、弱い、忌み嫌われるものです。

けれども、ギリシャ人であっても、ユダヤ人であっても、救われた人々は、キリストこそが知恵であり、力であることを知るのです。

キリストの十字架のみわざによって、神は、悪魔の支配を徹底的に打ち滅ぼし、神が人と交わりを持たれるという不可能なことを可能にしました。

キリストの十字架は弱々しく見えますが、全世界を支配する力よりも力強いのです。

神は自らその十字架にかかり、その力をあらわされたのです。

そして、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選んでくださいました。

神の御前で誰も自分の能力や賜物を誇ることができないためです。