2023年4月2日の説教要約
「十字架のメッセージ」 ディヴィッド・ミーク宣教師(OMS)
(通訳 中道善次牧師)
≪十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。≫ (コリントの信徒への手紙一 1章18節)
1コリント1章18~25節
キリスト教のシンボルは十字架ですが、最初の頃は避けられました。何故ならそれは死刑の道具だったからです。
ローマ人にとって十字架は極悪な犯罪人を意味します。
ユダヤ人にとって木にかけられた者は神に呪われた存在です。
しかしイエスは、十字架こそが自分の果たすべき使命だと理解していました。
今日ではほとんどすべての教会の礼拝堂に十字架が掲げてあります。
イエスは弟子たちが十字架を理解できない頃から、繰り返し、十字架について語って来られました。
十字架は、ユダヤ人の宗教指導者の敵意によるものでしたが、同時に、旧約の預言の成就でもありました(イザヤ53:5)。そのことを知っていたイエスは、自ら十字架を選び取りました。
それでは十字架から聞き取るメッセージを5つ挙げたいと思います。
第一:十字架は私たちの罪深さを示します。イエスは十字架にかかるような犯罪は何一つしておりません。1コリント15:3では、キリストは私たちの罪のために死なれたと述べています。
私たちは、自分はそれほど罪深くないと言い訳するかもしれません。しかし罪の誘惑は誰に対しても来るのです。しかし神は同時に、罪から逃れる脱出の道も備えておられるのです。
イエスの十字架は肉体的な苦しみだけでなく、霊的な痛みの方がもっと大きかったのです。十字架にかかり3時間後、太陽は光を失い、イエスは神から見捨てられました。私たちの罪に押しつぶされ、息もできないほどになったのです。天国の王が地獄の現実を味わわれたのです。
第二:十字架は私たちの無力さを示す。もし私たちが自分たちのよい行いにより、神との関係を回復することができ、天国に行けるのなら、十字架は必要ないでしょう。しかし私たちは無力なのです。神の栄光の姿に届かないのです。私たちが救われるためには神により頼むしかないのです。
第三:十字架は神の正しさを示します。ある人は、キリスト教を信じることを拒みます。その理由として、神は不公平だと言います。ある人は、理不尽な目に遭い、他の人によってこんなに苦しんでいると言います。しかし私たちは皆、自分の間違った選択により苦しんでいるのです。
唯一、一番不公平な目に遭い、苦しんだお方はイエスです。彼は罪のないお方でした。しかし律法を破ったと言われました。彼は愛を示しましたが、多くの人々に憎まれました。彼は真理を伝えたのに、うそつきだと言われました。そして最も身近な人々から見捨てられたのです。
イエスは訴えられるようなことは何一つしていません。彼は愛を示し、神の正しさも同時に満足される道を選びました。それが罪びとの身代わりとして正しいものが死ぬ、十字架です。
第四:十字架は神の愛を示す。神は、私たちを皆滅ぼすことによって、罪を滅ぼすと言うことをなさいません。神は救いの道を示し、神と和解の道を開いてくださったのです。
古代、特にギリシャで言われてきたことは、神々には感情がない。神には愛はない。もし人が神を悲しませることができるなら、その人は神よりも力強いと言われてきました。しかし十字架は、「神には感情がなく、愛もない」ということが間違いであることを示します。神は私たちを愛し、人間のことを深く心配しておられるのです。
第五:十字架は神の力を示します。
十字架は、世界中の人々を魅了します。OMS本部にいると、世界中の人々が回心することを聞きます。インドの村に住む人。北アフリカのイスラムの町に住む人。暴力により抑圧された地域の人々が救われているのです。
十字架の力は、時間を超えたものです。またクリスチャンと言われる人々の失敗、不正、残虐な行為があります。また私たち自身も、愛を示すべき時にそれができないことがあります。
それにもかかわらず、十字架に示された神の愛は、人々を感動させ続け、多くの愛を生んでいるのです。
十字架は、感情的な男シメオンを、岩のようなペトロに変えました。迫害者であったサウロを宣教者パウロに変えました。
十字架は歴史的な出来事にとどまらず、2000年以上にわたって霊的な事実なのです。神は今も働いておられます。私たちが住む世界は、制御不要のようになっています。しかし神はコントロールしておられるのです。神に逆らう人物であっても、神の支配の下にあるのです。数千年前、エジプト王ファラオが神の支配の下にあったように。
十字架は、私たちに喜びをもたらし、前に向く決意をもたらします。
私たちは、神が私たちの罪を十字架に釘づけて下さったことを喜ぶのです。
私たちは、断罪と罪責感から自由にされたことを喜ぶのです。
私たちは、神の愛と赦しを喜ぶのです。
同時に、私たちの罪が十字架にくぎ付けられたことから、私たちは次の前向きな決意をするのです。それは二度と罪を軽く扱わない決意です。イエスが赦しのために支払ってくださった十字架の代価の重さを認める決意です。
イエスが十字架にかかった直後、弟子たちにとって十字架は絶望と夢の終わりを意味しました。しかしイースターを経験した者たちにとって、十字架は希望の象徴です。
パウロは言います。十字架の言葉は滅びゆく者には愚かであるが、救いに預かった私たちには神の力である(1コリント1:18)。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い(1コリント1:25)。