2023年4月9日の説教要約 「エマオ途上にて」

2023年4月9日の説教要約

    「エマオ途上にて」     中道善次牧師

 

≪そして、モーセとすべての預言者から始めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。≫   (ルカによる福音書24章27節)

 

ルカ福音書 24章13~27節 

 

1、キルヤト・エアリムとエマオは同じ場所

 復活されたイエスが歩いて向かっておられたのはエマオでした。

 イスラエル旅行に行ったときです。ガイドの先生が、私たちがバスで空港から移動するときキルヤト・エアリムの近くを通りました。ここがその場所だと指差されたとき、ここが復活されたイエスが二人の弟子と一緒に歩いて向かったエマオと同じだと言われていますとコメントされました。

それを私は記憶にとどめていました。

ここで少し旧約聖書の話をします。キルヤト・エアリムと関係がある物語です。

サムエル記上4章では、イスラエルがペリシテとの戦争に負けて、神の箱が奪われたという物語があります。ところが敵地に行った神の箱は、あちらこちらで災いをもたらし、ついに、イスラエルに送り返すことになりました。

 不思議なことに乳を与える雌牛が、子牛から引き離されても真直ぐにイスラエルの領地に向かい、ベト・シェメシュという場所に到着しました。ところがその場所で不敬虔な行為がありました。それはベト・シェメシュの住人が神の箱の中を覗いたのです。 彼らは聖なる物を扱う扱い方を知らなかった。

 そこで神の箱は、キルヤト・エアリムに運ばれました。  

 ペリシテ人にとって、キルヤト・エアリムは、彼らが監視しやすい高台にあるということで好都合であったのです。

 また、イスラエルにとっても、キルヤト・エアリムは、神の箱を管理してくれる人たちがいるよい場所であったのです。

 キルヤト・エアリムという場所は、ヨシュア記9章に出ております。

ヨシ 9:17 出発して、三日目に彼らの町に着いた。その町とは、ギブオン、ケフィラ、ベエロト、キルヤト・エアリムであった。

 ここでヨシュア9章の物語を説明いたします。

出エジプトをして約束の地、パレスチナに入ったイスラエルは連戦連勝でした。神の命令は、約束の土地を征服しなさい。それは、罪深い民に対する神の裁きも意味していました。ところがギブオン人の住む都市国家ギブオンの人々は、イスラエルは、戦って勝てる相手ではない事を察知し、嘘をついて契約を結ぶ計画を立てたのです。自分達は、遠くからやってきた民族です。カナンの原住民ではありませんと偽ったのです。そして私たちと契約を結んでくださいと言いました。イスラエルでは、契約によって社会が成り立っていましたので、契約を結ぶ事はイスラエルの社会ではとても重要でした。彼らは神の前に契約を結び、神に誓いました。お互いを滅ぼさず、お互いを守るという契約です。

しかし、三日後に嘘である事がばれたのです。彼らはカナン地方の原住民、神が滅ぼせと命じた民でした。ヨシュア記ではギブオンの名前が前面に出てきますが、ヨシュア9:17を見ると、4つの都市国家が契約を結んだのです。その一つが、キルヤト・エアリムでした。

噓がばれた後、こう書かれています。いったん契約をした以上、取り消す事はできない。ギブオン人は、奴隷としてイスラエル人に仕えました。彼らが主にしたことが、神殿の水汲みや薪割という働きです。

ヨシ 9:27 その日、ヨシュアは彼らを会衆のため、また主の祭壇のために、定められた場所で薪を集める者、水を汲む者とし、今日に至っている。

不思議なことですが、後の時代、ギブオン人が住んでいた町ギブオンに、祭壇が置かれ、ソロモン王はそこで犠牲をささげました。

ギブオンが聖所となる前に、キルヤト・エアリムには、神の箱、つまり、主がおられる聖なる場所となったのです。それを管理したのは、キルヤト・エアリムの人々でした。彼らは、神殿の下働きどころではない。大切な神の箱を20年も守ったのです。かつて保身のために嘘をついた人々でしたが、神様は彼らの人生を祝福されたのです。

 

2、エマオ途上でなされたこと

 キルヤト・エアリム(エマオ)は、エブスと呼ばれていた町(後のエルサレム)から、11キロの所でした。

ルカ 24:13 この日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン(11キロ)離れたエマオという村に向かって歩きながら、・・・

エスが復活され、クレオパともう一人の弟子に現れ、聖書を二時間半ほど説き明かしながら歩いた目的地エマオに向かう時、イエスは聖書を説き明かされたのです。

ルカ 24:27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自身について書いてあることを解き明かされた。

小林和夫先生はこのところを、次のようにおっしゃるのです。旧約聖書で「ここだ」、ここに私のことが書いてある。そのようなところをピンポイントで示されて、聖書を説き明かされたのだ。

モーセ5書のここだ!は、創世記22章です。

アブラハムがイサクをささげるところです。独り子とあります。これは私のこともさしているのだ。

やがて十字架にかかるイエスの姿が、創世記22章で描かれているのです。

次に預言書です。

イザヤ7章の「おとめが身ごもって男の子を生む」。それは私がおとめマリアから生まれることなのだ。

もう一つがイザヤ書53章です。イザヤ53章の苦難の僕は私のことだ。十字架にかかって苦しむ私の姿が描かれているのだ。

そして詩編です。22:2には「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」

これは私のことだ。十字架の上で叫ばれたイエスの言葉です。

なぜこのような解き明かしをなさったか?

それは十字架を見るだけでは、これが私たちの救いのためであると誰もわからなかったからです。

当時、十字架の死刑は、たびたびおこなわれていました。

エス様と一緒に二人が十字架についたのです。

だから十字架を見ても、人々は犯罪人の死刑としか考えなかったのです。

十字架の死の意味を説き明かしたのは、復活されたイエスです。

旧約聖書のあちらこちらを開いて、ここにも、ここにも、神の子が十字架で死ぬことが預言されている。そのようにして聖書が解き明かされて、弟子たちは初めて、十字架の意味を悟ったのです。

そのような旧約聖書の解き明かしの中で、イエス様が神の箱についても触れなさったと思います。

神の箱の蓋の部分、贖いの座と呼ばれる部分、それは私のことだ。ここに私がいるのだ。血が注がれる贖いの場所が私なのだ。私は、今から向かおうとしているエマオに20年間滞在したのだ。それがキルヤト・エアリムに神の箱が20年間置かれていたことだよ。

復活されたイエス様が、弟子たちと同じように私たちにしてくださること

それは聖書を教えて下さることです。十字架の意味を教えて下さることです。

復活のイエスが目に見えなくても、聖書を教えて下さるイエスを私たちはそばに持っているのです。