先週の説教要約 「憐れみ深い人々は憐れみを受ける」

○先週の説教要約
『憐れみ深い人々は憐れみを受ける』            中道由子牧師

《憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。》    マタイ5章7節
山上の説教の前半4つは、神に関することで、後半4つは、人の性質にかかわることと言うことができます。

1、憐れみは無条件の愛
 「憐れみ」は、罪によって深い傷を負った人や、刑罰のために死に瀕した人を
再び立ち上がり、生き返ることが出来るよう、助けることを意味しています。旧聖約書では「ヘセド」という言葉で、約150回ほど出てきます。神のご性質やみわざについて語る時に使われ、「変わらぬ愛」とも訳されます。
本来憐れみは、人々の心の中には存在しません。私たち人間は罪を犯し堕落したため、人々を赦し癒やす、憐れみを持っていないのです。憐れみは神様の御性質、満ちあふれるほどの神の無条件の愛、無限の赦しです。神の憐れみは、相手が誰であるとか関係がありません。愛の対象を選ばないのです。旧約聖書では、憐れみは神の誠実さであり、まことであると書かれています。神様の憐れみは、絶対的な愛と赦しの中にあって、無条件で変化がないのです。

2、憐れみと義
 憐れみが義とは深い関係があります。「憐れみ」は、神と人との間のことだからです。義とは、この神の誠実に対して、正しく生きることです。しかし、イスラエルの民は、繰り返し不真実で、反逆を繰り返してきました。
「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎からくびきをとりさり、みをかがめて食べさせた。」(ホセア11:4)
ホセア書には、夫を裏切って逃げる妻に対する真実の愛を貫こうとする夫の愛が書かれています。その愛を神の「憐れみ」として表現していますが、神の愛はそれよりももっと深く、神の憐れみは、神の義を貫くことであります。義である神は、相手がたとえ不真実であっても、自分の真実ゆえに、なお愛することがお出来になる。神の真実は、相手の不真実によって左右されることがないからです。

3、憐れみと恵み
 新約聖書で、憐れみはギリシャ語の「エレオス」で、27回使われています。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かし、」
(エフェソの信徒への手紙2:4〜5)
「神は、私たちが行った義の業によってではなく、ご自分の憐れみによって、わたしたちを救って下さいました。」(テトスへの手紙3:5)

憐れみは、恵みよりもさらに深く、具体的な意味を持っています。恵みは、罪を赦し、神の代価なしに与えられる愛です。憐れみは、罪が生んだ苦しみや不幸、絶望を癒やし、私たちを新しく生まれ変わらせることができます。憐れみ深い人というのは、人の罪を赦す人で、罪を赦すことなしに本当に憐れむことは難しいと思われます。 

4、憐れみ深い人
ルカによる福音書10章25節以下の、良きサマリヤ人の譬で、イエス様は憐れみ深い人とは、このような人だと教えています。憐れみは、苦しい状況を切り抜けるために、自分の利益などは顧みずに、具体的な行動をとります。
① 憐れみは、対象が誰であるかにこだわりません。
② 憐れみは、自分自身のことを考えません。
それは、十字架の上で死なれたイエス様と同じ心なのです。
③ 憐れみは、感情ではなく、行動です。
憐れみは、具体的に行動を起こします。最も素晴らしい憐れみは、神が私たちの罪を赦すために、独り子イエス・キリストを世に送り、十字架に架けたみわざに現れているのです。神は、罪のために死刑宣告を受けている私たちを憐れに思われただけではなく、イエス・キリストを身代わりとして私たちが生きるようにしてくださったのです。