先週の説教要約 「義に飢え渇く人々は幸い」

○先週の説教要約
『義に飢え渇く人々は幸い』              中道由子牧師

《義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。》
(マタイによる福音書5章6節)

義に飢え渇くとは、クリスチャンの極みというか、高い地点に登ろうとする姿です。ホーリネス教会の四重の福音の聖めにあたります。そして、次の品性である憐れみ、そして次の平和をつくり出す、心がきよい人に繋がっていきます。

1.神の義

旧約聖書の義
 ヘブル語で義を「ツェダカー」と言い、神様の本質として用いられます。この義は社会の状況の変化によって変わる相対的な基準ではなく、神の本質であり、不変の規範であります。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる影もありません。」(ヤコブ1;17)影のように天体の動きによって変わることもありません。
「ツェデク」は「正しい」とも訳されます。人間が「正しさ」や「義」を持つことが出来るのは、万物の創造に当たって神が人間をご自分のかたちに造られたからなのです。義は、私たちが自ら持てるものではないのです。
新約聖書の義
 ギリシャ語で「ディカイオシュネー」と言い、神の律法と人の定めた基準に合わせ、それに従って生活することです。けれども、人間は自由意志をもっているので、神の意志に反した行動を取るようになって、神の義によって裁かれる者となります。しかし、この不義な私たちを神様がご自身の義を曲げないで、救おうとなさる、不義ではなく義として下さるのがイエス・キリストの贖いなのです。「水と油」のように、神様の義と人の不義は混ざることができないのです。不義なる人間は罰するしかない、不義を受け入れられないのは神様の御性質ですから、不義をそのまま受け入れたら神様の御性質が壊れ、神が神でなくなります。神の義とは、神の基準です、神の物差しと言ってもいいでしょう。堕落した人間には本質的に義がないからです。「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3;10、11)私たちの義はぼろ切れのように破れています。義は、正しい人が語ってこそ本当に義となりますが、正しくない人がいくら義を語っても、本人が義人ではないため、それは不義となります。クリスチャンでない方が、義を求める時、罪の問題に行き着きます。社会も政府も不義に満ちています。では自分は?というと決して義なる者ではない。クリスチャンでない方が義を求めるなら必ず、そしてその罪を嘆きその罪からの解放されたいと願うのです。それが主にある救いです。水と油は相容れない、人の罪と神の義もそうです。一緒には住めないのです。しかし、神は私たちを造られたお方で私たちを愛しておられます。滅ぼしたくないのです。ついに神は私たちへの愛ゆえに、ご自身を、ご自分のひとり子を十字架につけて罰し、私たちを義としてくださったのです。イエス・キリストの十字架の死により、神の義は完全に満足したのです。きちんと不義が罰せられたゆえに、神は私たちを思いっきり、誰はばかることなく愛することがお出来になるのです。
2.義に飢え渇く人々
 クリスチャンのが義を求めるとき
①聖めの恵み
救いを受けている私たちですが、そのままで満足しているわけではありません。
パウロがフィリピの信徒への手紙にこう書いています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピの信徒への手紙3;12)
キリストに近づき、聖くなることを日ごとに求めます。
「涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、私の魂は渇く。」(詩篇42編2,3節)
ルカの福音書15章のたとえにでてくる放蕩息子は、財産も、友人も、健康も全て失い、豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思うほど悲惨な状況に陥ったときに、父親のことを思い出しました。義に飢え渇いている者は、ちょうど放蕩息子のような状態です。命が今にも途絶えそうな絶対絶命の状況におかれても、イナゴ豆を横目で見つつ、父親の家の雇い人の独りでもなれば、と父親を思い浮かべ、助けを求める心、これが義に飢え渇いている者の心です。その人は、藁をもつかむような思いで神の恵みを待ち望みます。その時には、わたしたちにはどんなことも感謝できます。コップ一杯の水も蜂蜜のように甘く、人匙の食事も最上の料理のように感じます。世間から見れば不満だらけの状況でも、義に飢え渇いている人から見れば、小さな事にも感謝でならないのです。

②満ち足りる人生
 義に飢え渇いている人にもたらされる祝福は「満ち足りる」祝福です。これは外面的な満足ではないと思います。いい家に住み、いい職場、いい環境、子どもたちの成功、世間的な名誉ではありません。「主は渇いた魂を飽かせ、飢えた魂を良いもので満たしてくださった」(詩篇107;9)「飽き足りる」という字は、マタイでは、15章33,37節に出てきます。それは主が、パンの奇跡を行って、大勢の群衆を、パンと魚で飽き足らせました。わずかのパンと魚で十分に満足させられて、パンの残りが、7つのかごに満ちた、のです。私たちは日々にこのように御言葉の糧によって飽き足らせていただけるのです。

3.主イエスの飢え渇き
 創世記18章に神とアブラハムとのやり取りから、私たちはここで義をお求めになる神様を見ることが出来ます。アブラハムは、三人の天使を丁重にもてなします。出発になり、三人の天使はアブラハムに秘密を教えます。ソドムとゴモラが間もなく滅亡するということでした。この預言を聞いて、アブラハムは、ゴモラに住む甥のロトのことが気になり、神様に訴えます。ソドム、ゴモラが悪のために滅びるのは当然のことでも、そこに義人が住んでいるなら、神の審判は間違っているというのです。説得力あるアブラハムの主張ですが、アブラハムは希望を失います。自分を含めて、正しい者は十人もいなかったのです。神様は、正しい者が十人いれば、ソドムとゴモラを滅ぼさないお方なのです。ソドム、ゴモラ以上に罪深い現代にあって、私たちが滅びないように神ご自身がそこに立ちはだかって下さったのが、十字架であります。
「この後、イエスは、全てのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」(ヨハネ19;28)義に飢え渇くということがどんなことであるかを、本当に知っておられるのは主イエス様でした。人の姿はわかる、しかし自分の真の姿は私たちは、わからないのではない。そんな私たちの飢え渇きを主は身に負って下さいました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27;46)これが、真に義に飢え渇いた方の言葉であります。