2019年9月8日の説教要約 「主は近い」

201998日の説教要約

     「主は近い」   中道由子牧師

≪あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。≫          (フィリピの信徒への手紙4章1~9節)

 

1、       いつも喜ぶ

 この手紙には「喜ぶ」という言葉が16回出てきます。喜びの書簡と呼ばれて、喜びにあふれています。しかもパウロは、これを獄中で書いているのです。

獄中は喜べる環境とは言えないでしょう。環境とは関係なしに、パウロイエス・キリストを知って、嬉しくて嬉しくて喜ばずにはいられなかった。それは一時的ではなくて、継続的な喜びです。

神様が私たちに何をしてくれたから賛美をしているわけではなく、神様がただ神様として崇められる。主は、愛なるお方、聖なるお方、義なるお方、備えたもうお方、癒し主、主の主、王の王、やがて来るべきお方として賛美されます。これが私たちの主を喜ぶ、喜びであり、この喜びの真っただ中にいることが実は非常に安全なこと、私たちがあらゆることから守られる秘訣なのです。この喜びの中心にいないと、簡単に不平不満、思い煩いにやられてしまうからです。

私たちが主との交わりのなかに生かされていますと、主に在る人生は、決して平たんではないと思います。主にあって生きる人生には、悲しみ、苦しみ、悩みさえ、楽しさや感激と感謝と共に、人生のキャンパスの上で、様々な色彩となって深みのある豊かな人生を描きます。

どんな環境にある時も主が支えの御手を伸ばしてくださる、それゆえに決して喜べない状況の中で、主を喜ぶことは私たちを守り、豊かな人生に導いてくれます。

 

2、       寛容な心をもつ

 新共同訳では「広い心」となっています。

「優しさ、公平、誠実、思いやり」の意味があります。

誰かに対してこのような心を持って接するのです。

2節から書かれていることは、二人の女性の存在です。

エポディアとシンティケという女性です。

教会という箱舟の中で、みなで人生を分かち合い、生きていく、主のために教会を建て上げていく、そんな中で、主のために仕えて生きているのにどうしても気があわない人に出くわしたりする。この二人の女性はフィリピ教会の中でリーダーであったようです。

しかし、うまく協力できなかったことがわかります。熱心な二人の熱心さが不一致を産んだのです。この熱心さは教会が二つに分裂するかもしれない、危機を迎えていました。自分の熱心が主の熱心と同じではないのです。

パウロは教会に対しても「真実な協力者よ、あなたにもお願いします。」と書いている。

教会の中で対立が起こってしまうとどうしたらよいか戸惑います。判断を誤って、時には片方にだけ味方し、他方が教会にいることができなくなって去って行ってしまうこともあるでしょう。「教会も結局人間の集まりだから。」という結果に終わってしまわないように、ここで、パウロはそういう対処ではなく、他の人たちに呼び掛けています。

そのために指導的な立場にある人が積極的に介入することを求めているのです。

当事者の二人の女性には、「主によって同じ思いになってほしい。」と呼び掛けています。

このエポディアとシンティケという女性は、有能な人達ですから、教会が前進するために用いられる方々です。彼女たちが学ぶこと、通って行かなければならないことは、

2章に出てくる「へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考える」(23節)ことです。どんなに考え方、やり方が違う人にも、「あなたと私は目指してるところは一緒だから、私も一緒に考えさせて。」と近づいていくことはできます。

教会は誰のものでもない、キリストのご支配がこの中にあります。

主にあって同じ思いを持つとは、一緒にやっていきましょう、時に自分の思い通りにならなくても歩み寄れる心です。

118節で、「とにかくキリストが告げられているのだから、わたしはそれを喜んでいる。」とパウロは言っています。福音の神髄、真理に関わることでなければ、これもありだしあれでもいいと柔軟な考え方が必要です。

寛容さ、度量の広さが試されるところです。広い心、優しい心、誠実に思いやりのある言葉と対処を心掛けたい。

なぜなら、5節「主が近くにおられるからです。」主があなたの傍にいて、あなたのことを見て、あなたの言葉を聞いているから。そのお方は、ここにあるように命の書に私たちの名前を書くことができる方です。

主が傍にいる、このことを感じておられますか?

もうひとつのここでの解釈は「再臨の主が近い。」ということです。私たちは、再臨の主の前に立つ、そのことを忘れないようにしたいです。再臨の主が近いから、私たちは他者に対して、広い心、寛容な心を示す、これは「聖め」の問題を取り扱っています。

再臨の主の前に立たてるか、その時私たちは主の贖いがいかに大きなものか、目の当たりにするでしょう。

 

3、       思い煩いを委ねる

 1978年、韓国の旅客機が北極圏で進路を誤って、当時のソビエト領に入ってしまい、戦闘機に砲撃されて不時着しました。乗客二人が死亡する痛ましい事件が起こりました。道路を誤った原因はジャイロコンパス関係の故障で、飛行位置が分からなくなり、目標からずれてしまったのです。

私たちも自分の歩んでいる方向や位置がわからないと、不幸な人生を歩まなければならなくなります。

46節「思い煩い」は、人が人生の正しい目標を見失って歩んでいる時に現れるものです。

思い煩いでいっぱいになる時、私たちの方向はどこに向いているでしょうか?

ある聖書学者は、「人間の思い煩いとは、結局は人の心が本来向けられべきお方、神から離れてしまって、自分自身や何かの物事に向けられているときに起こる。」と言っています。ちょうど目的地を見失っている飛行機のようなものです。

エス様がマルタとマリヤの家に来られた話は有名です。マルタはもてなしの方法ばかりに気をとらわれて、手伝わないマリヤに対してもイライラし、イエス様の方に心がむいていなかった。

ルカによる福音書10章41,42節

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」

パウロはこのただ一つのことをこのように書いています。

フィリピの信徒への手紙4章6,7節

「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」

私たちがすることは、このことだけです。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

私たちはあれこれ考えてしまう。でも神様には私たちのためにご計画がある。

イザヤ書55章8,9節

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる

と主は言われる。天が地を高く超えているように 私の道は、あなたたちの思いを、高く超えている。」

 

神様の思いは、神様の道は異なっている、私たちの思いよりはるかに高いのです。

私たちはすぐにそれがわからないことが多くありますが、後になって、その偉大さを見ることでしょう。主は近いのです。