2019年12月29日の説教要約 「健全な比較」

2019年12月29日の説教要約

       「健全な比較」  エミリー・スミス宣教師(照内幸代牧師訳)

                   <コリントの信徒への手紙2 8章1~5節>

 

私にはとっても親しくしている友人で、ブッバとエバという夫妻がいます。

毎年、この夫婦はジョージア州アトランタにあります、インディアン・スプリングス・ホーリネスキャンプ場というところで、こどもたち向けのキャンププログラムの責任を負ってくださっています。

2017年の夏、夫妻が私に、こどもたちのキャンプボランティアに興味がありますかと尋ねてきましたので、わたしは勿論ですと答えました。

わたしはこの夫妻とともに、こどもたちの働きに携われて幸せでした。特に、新しいボランティアメンバーと働けたことがとっても嬉しかったのです。私にたくさんの友人ができました。実を言いますと、私がこの二週間でした主なことというのは、この友人をつくるということだったんです。

私がこどもたちの面倒を見て遊ぶはずであった時間、私はこどもたちの親御さんたちとおしゃべりをしていました。ある日、水遊びの時間がありました。でも私は水遊びには参加したくないと思って、自分の小屋に戻って昼寝をしてしまいました。

勿論私はお手伝いました。朝には時間通りに集合しました。でも私のボランティアとしての振舞いというのは、あんまり良くなかったんですね。

最終日、友人のブッバがちょっと話せないかときいてきました。彼は私に、一体何が気に入らなかったのかいと尋ねました。私はブッバに、何でそんなことをきくのか分からないと言いました。すべてとっても良かったのです。

彼は私のふるまいを見て、とってもわがままだと感じたそうです。でも何故エミリーがそんな態度でいたのか分からない。クリスチャンリーダーになってからは特にそうだったと言いました。

アシュリーという別のボランティアスタッフがいました。この二週間で、とっても良い友人になった人です。アシュリーは一番素晴らしいボランティアでした。

ブッバは言いました。「きみ、アシュリーが私に何て言ってきたと思う?」

アシュリーはこう言ったんだ。「ブッバ、私はボランティアスタッフとして、どうしたらもっとよく働けるかな。どういう風にすれば、もっとよい奉仕ができるかな」

私は気分を害して言いました。「ブッバ、あなたはアシュリーと私を比較しているみたいだね。私がちゃんと質問して、自分の行いを変えるべきだったみたいに。」

ブッバはちょっとかたまって、そして言いました。「まさにそういうことだよ、エミリー。私はきみにそう言いたかったんだ」

誰かと比べるということは、愉快なことではありませんね。

しかし聖書的な真実とそこに記録された事実をみたときに、私は健康的な比較というものがあると気付かされました。勿論不健全な比較というものはあります。

たとえば、もし私がこどもキャンプのボランティアでなかったとしたら、ブッバが私の行いとアシュリーの行いを比べるというのは不健全であったでしょう。私とアシュリーは比較すべき同じ立場でないからです。または私の日本語能力を中道先生と比べるということも。先生は生まれてからずっと日本語をしゃべってきたわけです。そんな的外れな比較であったら気分を害することはありません。

しかし誰かと比較するというのは簡単なことではありませんね。健康な比較というのは、事実私たちを成長させてくれるものですが。

もし私たちが、自分はどう行動すべきなのかという確かな「基準」をもっていたとしたら、私たちは自分がどう変われるかということに対して、前向きになれるのではないでしょうか。私たちはその確かな「基準」というものを求めるべきです。

 

パウロはコリントに住んでいるクリスチャンたちに、エルサレムにいる経済的に必要を覚えている信徒たちに対して、献金を捧げることについて手紙を書きました。

その一年前、コリントのクリスチャンたちはある程度まとまった金額をささげることを目標にして、献金をつのることに熱心になっていました。彼らのこの熱意というのは、なんと他の各地の教会にもやる気を起こして、その各地の教会というのが同じ献金目標を立てたのです。一年が過ぎて、残念なことにコリント教会は最初に決めた献金目標ほどささげることをしなかったのです。

この聖書箇所は、パウロがコリント教会に、君たちのお陰で影響を受けたマケドニア教会は、決してあきらめずに今もなお献金目標をかかげて捧げ続けているよと書いている部分なのです。パウロはこうも書いています。八節「私は他の人々の熱心さを伝えることで、あなたがたの愛が本物であることを確かめようとしているのです。」

パウロは他の教会とコリント教会を比べることで、もっと言いますと、コリント教会よりも貧しい教会と彼らを比べることで、このことを大胆に伝えようとしたのです。

 

新しい一年を迎えようとしていますね(あえて新しく始まるこの先10年とはいませんけど)。私は教会という一つの家族が、パウロがコリント教会に健全な教会とはどのような教会かを示したように、この確かな基準というものを目指していただきたいと思っているのです。

私は皆さんに、自分自身と、そして自分の教会とを、健全な方法で比較するということを励ましたいと思います。

パウロマケドニア教会の主要な4つの特徴を書き記してくれましたので、それを皆さんに分かち合いたいと思います。

 

1.環境は捧げものとは関係ない

マケドニア教会は喜びであふれていました。教会が喜びにあふれているというのは、教会につどっている一人一人が喜びにあふれているからです。私たちは喜びにあふれているでしょうか。私たちは喜びの源となるものを握りしめているでしょうか。

二節を見てみましょう。

マケドニア教会は貧しく、多くの困難によって試練に遭っていました。けれども彼らは豊かな喜びで満たされていました。豊かなお金があったわけではありません。環境的に平安であったわけでもありません。文句ならいくらでも言えるような状況です。

でも何と書いてあるでしょう。彼らは喜びで満たされていたと書いてあるのです。

それは彼らがイエス様で満たされていたからです。イエス様は決して変わることがない。なんとすばらしいことでしょう。もしあなたが職を失ったとしても、家や車を失ったとしても、イエス様は決して変わることがありません。

私はすてきなTシャツを一枚持っているんです。

そこには、「喜びを選びなさい」と書いてあるんです。

私がそのTシャツを買ったのは、自分の環境や状況を見て、何に焦点を当てるべきなのかを、いつも覚えていたかったからです。私は喜びを選ぶこともできるし、自分の状況や環境に焦点を合わせることもできます。

私たちはどんなキリスト者であるべきでしょうか。わたしたちは何で満たされているべきでしょうか。私たちは周りの人々に、私たちには自分の環境や困難よりもはるかに大きな神がいらっしゃることを、証しているでしょうか。

私たちはこの世にある自分の行い以上に、イエス様に対する信仰をもっているということを示しているでしょうか。私たちはこの世界に、私たちの心の中に生きている主よりも、自分の手の内や銀行口座に持っているものに関心があるんだと示しているでしょうか。もしそうでないなら、わたしたちはどうあるべきなのでしょう。

これは単なるお金の問題ではありません。

この聖書箇所は、マケドニア教会の姿について語っているのです。

世の人々は、マケドニア教会がいだいていた喜びから、喜びというものを見ることができたのです。マケドニア教会の人々が喜びに生きているというのは信じられないようなことでした。彼らの環境というのは、決して喜びを生み出すような状況ではなかったからです。彼らは喜びに生きることを選んだのです。

世の人々は、教会のメンバーであるあなたから何を知ることができるでしょうか。

私たちはキリストの喜びに日々満たされているものとして何ができるでしょうか。

私たちは隣人に対して、キリスト者の一人として証をたてるために、何をすべきなのでしょうか。彼らの喜びというのは、他のものとしてかたちをかえて現れたのです。彼らの喜びは惜しみない捧げものとなったのです。

私たちの喜びは、単なる喜び以上のものを生み出すことができるのです。単なる喜び以上に、人々を生かすものとなるのです。

 

二番目のポイントです。

2.彼らの捧げものは世のことわりに基づかなかった

三節に、「彼らは力に応じて、また力以上に捧げ」と書いてあります。

繰り返しますが、これは単なるお金の話ではありません。これは心の問題です,主の導きに聞き従い捧げるとは、理解を越えたことです。

時に、神様が私たちに他者に対して援助するよう導いてくださる方法というのは、他の人が見ると、とても理解できることではありません。もし私たちが神様に完全に従っていくなら、時に神様の導く道に従っていくというのは私たちにとって理解できないものです。自分でこれだけささげればいいやと思っていた以上のものを捧げるように導かれることもあります。

一般的には、神様は収入の10%をささげるよう求めておられるので、あなたの収入のうちから10%だけ取り分けて神様にささげなさい。そして貧しい人の必要を満たしてあげなさいと言われています。仮にあなたがそんなお金はもっていないと思っていたとしても。

一般的には、クリスチャンは一週間に一回教会に行けばもう十分だと言われています。

けれども神様はあなたに、大事な問題について話し合うための壮年会を、火曜日の夜始めるように求めておられるかもしれませんね。もしくは神様は、あなたが週のどこかで教会の兄弟姉妹を訪問するように求めておられるかもしれませんね。あなたがそんな時間はないと思っている中で。マケドニア教会の考え方というのは、単なるお金の話ではありません。もし彼らがお金のことだけ関心があったなら、きっと自分の能力でできる分だけささげていたでしょう。彼らは自分の銀行口座にどれだけのお金があるかということよりも、彼らの助けを必要としていた人々のことを考えていたのです。

私たち教会は、求められている分だけささげているでしょうか。私たちクリスチャンは、これで良いと思われている分だけささげているでしょうか。または私たちは、期待されている以上のものをささげているでしょうか。単にお金のことだけではなく、時間や親切ということに関してはどうでしょう。そんな時間も親切も持ち合わせてないと自分では思っていることに関して。

真実を言いますと、私たちは自分で思っている以上のものを持っているのです。

自分で分かっていることというのは、単に自分で見ている範囲に過ぎません。

自分で見えないところに、私たちは多くのものを持っているのです。

 

3.彼らは捧げる特権を求めた

彼らのささげものは追い求めて達成されたものでした。単に空から落っこちてきた何かではありません。私たちのうちのほとんどの人はおそらく、期待されている以上をささげていると思います。もし私たちの目の前にある必要があれば、主が私たちの心を動かして助けたいと願わせるのです。

しかし私たちのうち一体どれだけの人が、ささげるチャンスを見つけているでしょうか。

私たちのうちどれだけの人が、何かお手伝いできますかと尋ねているでしょうか。

.約三年前、私は友人とこれをやってみました。

私たちは牧師に何か助けを必要としていることがありますかと尋ねてみました。牧師はそう申し出てくれてとっても嬉しいとおっしゃいました。実は多くの助けを必要としているある女性がいましたが、彼女の状況を教会全体にはその話ができなかったのだそうです。

彼女と、彼女の二人の息子たちと娘さんは、コロラド州からミシシッピ州に引っ越してきたばかりでした。彼女のご主人が新しい仕事につくことになり、その出世のゆえに綺麗な家も購入したのです。

引っ越しをする二週間前、彼らの真ん中の10歳の息子に、変な傷ができました。

医者はこれはガンですと言ったのです。お父さんはもうミシシッピ州にいて、新しい仕事をしていました。そこで彼らは急いでミシシッピ州に出て来たのです。引っ越してきて三週間後、女性のご主人は機械の事故に巻き込まれて亡くなってしまいました。

私と友人はこの家族のことを、クリスマスの直前に聞いたのです。そしてこの家族のために、クリスマスのお祝をしてあげようと決めました。私たちはクリスマスツリーと、プレゼントを買って、ある日の仕事おわりに彼女の家に立ち寄って、自己紹介をしてお話をしました。彼女はこどもたちに外で遊んでくるように言って、彼らが外に行ったとたん、涙を流したのです。知りもしなかった人を、こんなにもぎゅっとハグしたことはありません。彼女には多くの援助が必要でした。もし私と友人が、誰か助けが必要ではありませんかと尋ねに行かなかったら、私たちはこの女性も、彼女の子どもたちのことも、知ることはなかっただろうと思います。いつもは誰にも言えない助けの必要をどう伝えたらいいか分からずに、黙っていることがあるのです。時には、私たちは尋ねてみるべきなのです。自分から探しに行くべきなのです。

マケドニア教会はささげるという奉仕に参加することを望んでいました。彼らはパウロに、自分たちが奉仕できるか尋ねたのです。

私たちのうちのどれだけの人が、たくさん捧げたいという心をもって、ささげられるチャンスを探しに行くでしょうか。ただ自分のところに来たことに捧げるだけで満足していないでしょうか。両方できるかもしれません。

誰かの助けになりたいと、あなたはお思いになられるでしょうか。

 

4.彼らのささげものは全体的であった。経済ということを超えて。彼らのささげものは、神と教会に献げるというところから始まっていた。

パウロマケドニア教会についてこう言っています。五節「そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、わたしたちにも委ねてくれました。」マケドニア教会の人々というのは、単に気前が良かったのではありません。彼らの性質が、寛大であったということです。

パウロは彼らが喜びに満たされているという前に、このことがあったというのです。彼らは主に彼ら自身をささげている。そして、私たちにもそうしてくれたのだというのです。彼らがした最初のことは、彼ら自身を献げるということだったのです。

 

私はこの会堂にいる皆さんは、クリスチャンであるか、そうなりたいと思っていらっしゃる方なのではないかと思っています。

あなた自身を主なるイエス・キリストに献げるときに、あなたはあなたの心だけイエス様にあげるのではありません。あなたの人生全体をイエス様にあげるのです。イエス様を立ち入り禁止にできるものなんてなくなっちゃうのです。ちょっと恐ろしく聞こえますかねえ。

エス様はあなたの趣味に、興味関心ごとに、銀行口座に、携帯電話に、隠しごとに、結婚生活に、そして思っていることや欲していることに立ち入ることができるということなのです。イエス様は、全ての主だからです。

私たちがイエス様にしたがっていくときに、私たちはこう言うんです。

どうぞ、イエス様。これは全部あなたのものです。私がもっているもののうちで、わたしのものは何一つありません。これは全部あなたが、あなたの栄光をあらわすために、私にくださったものです。どう使ったらあいいのかわたしに教えてください。

マケドニア教会はそう理解したのです。

でもみなさんご存じでしょう。彼らは単に主に彼ら自身を献げただけではありません。彼らは、教会に彼ら自身をささげたのです。

現代の教会と、古代の教会は考え方がとても違っています。

最近の教会に対する考え方は、数時間なにかお説教を聞いて来るような場所のようです。

古代教会では、あなたは家族として持ち物を共有するのです。

使徒の働きの二章を見てみてください。

誰も必要を覚えて困っていなかったのです。持ち物全部を共有していたからです。この教会の人々は、お互いに与えあっていました。なぜならまず彼ら自身を神様にささげていたからです。あなたが主にあなた自身をささげていなければ、きっと他の誰かに献げるということもできないでしょう。

ある人がイエス様にこう尋ねました。「何が一番大切な教えですか?」

エス様はこうお答えになりました。「心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くしてあなたの主なる神を愛しなさい、そしてあなたの隣人を、自分自身のように愛しなさい」

これはてきとうな順番で言ったのではありません。イエス様は順序正しくおっしゃったのです。

二番目のことは、最初のことなしにできないのです。

十戒の順序もそうです。

十戒の最初の4つは、神様と私たちについて書いてあるのです。残りの6つが、人間同士の関係性について書いてあります。しかし残りの6つの戒めは、もし私たちが神様を自分の生活の正しいところに置いていなければ、意味をなさないことなのです。

クリスチャンである私たちは、心の全部を主におささげしているでしょうか。

真剣に考えてみてください。

これから始まる新しい一年、そして十年、どんなクリスチャンでいたいか、どんな自分を回りに示していきたいか、考えてみてください。あなたは教会にあなた自身をささげるでしょうか。教会にというとき、それは建物のことではありません。そこに集う信徒のことです。あなたはあなた自身を、教会にささげるでしょうか

エス様は、あなたの人生全体に、イエス様のご計画のために働くことができるでしょうか。もしそうなら、私たちはマケドニア教会のようになり、そしてそれはきっとすばらしいことでしょう。