2019年12月22日の説教要約   「本当の喜び」

2019年12月22日の説教要約

                       「本当の喜び」 中道由子牧師

         ≪彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。≫

                                                          (マタイによる福音書2;1~12節、口語訳) 

 

 クリスマスおめでとうございます。

本日の聖書の個所は、東方の博士たちが救い主を訪ねて旅をしてやってくる、そして贈り物をささげるところです。ここにはイエス様、マリアとヨセフ以外に東からきた博士たち、ヘロデ王、学者たちが登場してきます。これらの人たちを心に留めながら、3つのポイントでお話しします。

 

1、遠くてもイエスに近い人々

 博士たちのことをギリシャ語で「マギ」と言います。マギとは、ペルシャゾロアスター教の祭司階級をさす名称で、彼らは、天文観測や占星術の専門家でした。

ゾロアスター教というのは、一般的に拝火教と言われますが、心あるマギは、火を拝むのではなく、火を象徴する光と真理の神を拝んでいました。

少し歴史の話になりますが、ユダ王国は、紀元前587年にネブカデネザル王によって滅ぼされ、イスラエルの民はバビロンに移されました。この捕らわれの身となったユダヤ人からマギたちは聖書が説くメシヤの預言を知り、その出現を待ち望んでいたと言われます。あるいは彼らはユダヤの離散の民で、救い主を待ち望んでいたけれども、その信仰が少し変形してきていた、とも言われます。

ある日、彼らは東の方に現れた大きな星を見ました。これはメシヤの来臨と察知して彼らは、はるばる砂漠を越え、ユダヤベツレヘムにやって来たのです。砂漠の1600キロの道のりを、彼らはもしかしたらこの旅で死ぬかもしれなかったし、途中で盗賊に会って宝物をみな奪われるかもしれませんでした。そして、救い主がどこで生まれたかもわからない。ただただ一つの星を見て、命がけで探してきました。そうして出会ったのがイエス様でした。今朝私たちは、どのような心でここに到着しているでしょうか?博士たちが待ち望んでいた救い主を礼拝するために、神様は宇宙を動かして、天体を動かし、主を礼拝できるようにしてくださったのです。

彼らはメシヤはユダヤの王で、王宮で生まれたと思って、ヘロデの宮殿にやって来たのです。そこでヘロデから、ユダヤベツレヘムという地だと聞いた、そうすると、彼らは預言の通りだと動き出した星に従いベツレヘムに向かって行きました。ベツレヘムは小さな田舎町です。

 私が高校生の頃初めて導かれた教会は、岡山の田舎の教会でした。自転車で8キロはあったと思います。今は高い所に十字架が見える教会が建っていますが、当時は教会員の会社の裏にある平屋の12畳くらいの畳敷きの教会でした。これが、教会?みすぼらしく、外観は夢もありません。ちょっと行ったところに外交官だった方の奥さんが住んでいると言われるピンクの素敵な建物があって田舎では目立っていました。あそこが教会だと間違った人もいたそうです。でも、そのへんぴな教会は中に入ると違っていました。熱心に祈りがささげられ、熱気がありました。ここに真理があることが聖霊によりわかる、リバイバルの歴史のある教会でした。

 そのように博士たちも引き付けられるように、星に導かれ、馬小屋の上にその星がとどまったのです。

この博士たちは3人だと言われています。人数は聖書に書いていないのですが、贈り物が3つ11節「黄金、乳香、没薬」と3つ並べて書いてあるからです。この3つの贈り物は、いったい何を意味するのでしょうか? 黄金は、王様のしるしです。そして、乳香は、これは祈りの時に用いられるものと考えられます。神様のしるしです。没薬は、よく死体に塗られるので、これはイエス様の死の苦しみを表します。それが、宝の箱に入れられていました。これは、この博士たちにとっては、星占い師たちの商売道具でありました。これをリュックサックのようなものに入れて、あちこちへいって商売をする、占いをして歩いていたのです。没薬は、たとえば病気の癒しを頼まれた時おまじないをする、そのおまじないを書く時に、この没薬を入れたインクを使って書いたのだそうです。それをイエス様に献げてしまっている。彼らは、イエス様に会って星占いを捨てたのです。だから、今までいつも大事に肌身離さず持っていて、商売道具にしていた、その生活の手立てとしていたものをみな、イエス様の前に献げてしまったのです。今まで「先生、先生」と言われておまじないを書いて見てあげていた、その価値があるもの、実際には高価なものです、それがイエス様に会ったらもう

いらなくなった。明日どうやって生きて行こうかなど、考えないで、もうこれはやらないと決心できたのです。そして、主を礼拝すると満足して帰って行きました。

 

 2、近くてもイエスに遠い人々

6節「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で

決して小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。」

ミカ書5章2節の引用です。ここに救い主がお生まれになる場所が預言されています。

東から来た博士たちが「ユダヤ人としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方を礼拝するために来ました。」と言った時、ヘロデ王もみな動揺した、うろたえたと書かれています。どこでお生まれになったか、すぐに調べられる人たちがいました。幼いころから律法や預言書を学んだ学者たちです。彼らは、メシヤに関する知識をすでにもっていました。メシヤの誕生の場所が「ベツレヘム」であることを知っていました。こんな風に、たちどころに預言書を開いて解くことができる人が、誰にもましてただちに私が見つけにいこう、異邦人なんかに任せておけない、これはわれわれの救いの問題だからわれわれが真っ先に行くべきだ、とは言わなかったということです。誰も立ち上がろうとせず、腰をあげなかったのです。関心を持たなかったのです。

クリスマスは心躍る嬉しい時です。アメリカでは、お正月のように家族がみんな集まってくる時です。主婦たちは忙しく、飾りつけやクリスマスカード、ごちそうのことで疲れ果て、誰のためのお誕生日?私、教会の礼拝を休んでしまったわ、という話があります。笑い話ではないのです。

私たちの心の中にいろんなことがいっぱいいっぱいになって、イエス様を寂しい思いにさせていないでしょうか。

 

3、イエスに敵意を持つ人

東の博士たちがやってきて「ユダヤ人の王がお生まれになった。その方を拝みに来た。」と言った時、一番心穏やかでなかったのは、ヘロデ王でした。この人は、自分の王座を脅かす者をことごとく殺してしまう、悪人です。彼は、少年時代からローマのアントニウス帝に取り入り、ガリラヤ地方の知事となり、「ユダヤの王、ローマの友」という称号を与えられた人でした。彼は狡猾で、自分の地位保存のためにはどのような残虐なこともやってきました。王座につくとすぐに、サンヘドリンの議員を殺し、その後も300人の議会関係者を惨殺(ざんさつ)したとされています。肉親であろう区別はしなかった。叔父、妻、義母、自分の長男、あと二人の息子に至るまで殺害しています。さらに自分が死んだら民が悲しむようにその時は十名の者を処刑するように遺言をしたそうです。

彼は、エルサレム神殿の大改築に力を注ぎましたが、すべて自分の力を世にみせつけるためでした。

そんな人が、東の博士たちに「場所を教えてくれ。私もあとで行って拝むから。」と言っているのです。12節で「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

ヘロデは直ちに軍隊を送り、ベツレヘムをはじめ、その周辺の2歳以下の男の子を残らず殺させたのです。ヘロデ王は、自己保身のために、イエスを抹殺しようと、何も知らない幼な子たちを血祭りにあげたのです。しかし、今もイエスを排斥しようとヘロデの精神をもっている悪の力があります。

ヘロデの父親は本来はエドム人で、ユダヤ人に後で帰化したそうです。だから「ユダヤ人の王」という言葉に劣等感と不安を感じるしかなかったのです。悪しき力を持つ人も劣等感にさいなまれる弱い人間でした。その罪を正当化して人を傷つけて生きて行ったのです。人々の目には、ヘロデ王家がイスラエルの中心でした。しかし、神の目には他のところに中心がありました。

ベツレヘムという小さな町です。このベツレヘムダビデの故郷であり、王として油注がれた所でした。

マタイによる福音書は、1章をご覧になると、ユダヤ人の系図ユダヤ人に向けて書かれています。しかも王の歴史を重視しています。その中で、大切なところに異邦人の女(ラハブ、ルツ)が出てきて、実はイエスユダヤ人の王だけでなく、全世界の王なるお方であることを強調しています。

イエス・キリストの誕生は、ユダヤの歴史だけでなく、全人類のための出来事になってお祝いされています。

今日の中心聖句10節をご覧ください。「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」とあります。この喜びは私たちが作ることができるものではありません。

私たちの兼牧教会で、子羊コーラスという慰問コーラスがあって、老人ホームで歌います。

「皆さんに喜んでもらえた。あー、よかった!うれしい!」と思います、でも、この達成感はこれで終わってしまいます。また訪問して喜んでいただけてもそれで終わってしまいます。

いつまでもなくならない、本当の喜びは、人が作ることができないものです。

わたしたちを造られた神様だけがくださる喜びです。この東方の博士たちは、救い主と出会い、救い主を礼拝して、本当の喜びをもらったからこそ、本当に満足して帰って行ったのではないでしょうか。

マタイの福音書は「来て見なさい」と救い主のところに導き、28章最後には「全世界に出て行ってこの喜びを伝えなさい」と書き卸しているのであります。