2020年12月13日の説教要約  「学者たちの献げ物」

2020年12月13日の説教要約

       「学者たちの献げ物」   中道善次牧師

 

「家に入ってみると、幼子は母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

                      ≪マタイによる福音書2章11節≫

 

 

 マタイ2章1~12節

 

①王の誕生を知った人々の反応

 ここには4つのタイプの人々が登場すると言えます。

第一は、ヘロデ王。これを表面的な喜びをする人と言っていいでしょう。

ヘロデは、8節で、生まれた王を礼拝しますといっていますが、本当は殺そうと思っていました。喜びは表向きの顔にすぎませんでした。

インドで働くブラジル生まれの宣教師がクリスマス時期の日本に来て驚きました。日本中がクリスマスをお祝いしているようだ。日本はまるで、キリスト教国のように思えた。でも本当のクリスマスの意味を知って喜んでいる人々はほとんどいないことを知り、がっかりしました。

クリスマスという言葉は、キリストのミサ、つまり、キリスト礼拝という意味です。だからクリスマスには礼拝をしなかったら、本当のクリスマスにはなりません。

 第二は、「不安を抱いた」人々です(3節)。特にエルサレムに住む人々は、新しい王が生まれた事で何が起こるかを予想して恐れているのです。ヘロデ王は、自分の王位を狙う人々を、自分の兄弟であっても、殺していったのです。ヘロデの狂気する姿が16節以降に書いてあります。

クリスマスは、私たちの心の中にイエスを神として礼拝し、王として迎える事です。そのようなことをすると困る人がいるのです。私はまだ神を信じるほど弱くない。自分は幸せで、困った事はないから、神を必要としない。ある人は、自分の人生は、好きなように生きるから、神に支配されると困る。

神が私たちの心の中心(王座)に来ると困るタイプの人々です。 

 第三は、無関心な人です。4~6節に出てくる律法学者です。彼らは聖書の事をよく知っていました。メシアがどこに生まれるのかと尋ねたらすぐに、ユダヤベツレヘムですと答えました。

それは旧約聖書のミカ書5章1節に書かれています。その箇所をすぐに開く事が出来たのです。本当によく聖書を知っていました。しかし、律法学者はベツレヘムに出かけてゆこうとしない。礼拝をする事を考えていない。クリスマスについて知識はあっても、礼拝するために教会にやって来ることが大切です。

 第四は、礼拝を献げた学者たちです。彼らは、イエスに献げ物を献げました。

 

②東から来た学者たちは誰か

東から来た学者たちは信仰者ではないようです。彼らのことをマゴスと呼びます。このマゴスの複数形がマギです。マギは古代ペルシャの僧族、いわゆる異教徒で、星占いをしていた人々です。

英語の辞書では、マギのあとにはマジック、魔法や魔術と言う言葉があります。聖書で禁止している占いをしていたのです。しかし神は、その占いを用いて学者たちを神の元に導かれました。

旧約聖書民数記に、バラムという預言者が、占いをしたところ、神様の素晴らしい事を語ったという話しがあります。神はどんな占いよりも超えた御方なのです。

占いをする学者達は、イエスに出会って、いままでの占いを捨てたという理解があります。彼らがイエスに献げた贈り物は、黄金、乳香、没薬です。ある説によりますと、これらは彼らの商売道具で、占いに使っていたといわれます。たとえば、没薬を入れたインクに筆に付けて、それでおまじないの文字を書いてあぶり出しのようにする。そして占いを告げてあげていたのです。学者たちにとって、これがないと生きてゆけないという大事な商売道具でした。しかしそれらを全部捨てた、言葉を換えると、イエスの許に差し出したのです。だから彼らはもう占いをしない。献げ物は、そのような信仰の告白でもありました。

もう一つの東の学者たちの可能性は、バビロンに連れて行かれたユダヤ人の末裔だという説であります。彼らの何代か前の親は、ユダヤからバビロンに捕らえられてきた人々です。(あるいは北イスラエルからアッシリアに捕らえられた人かもしれません。)バビロンが滅びた後、祖国に帰った人々もいますが、留まった人々もいます。彼らは、ユダヤの伝統を守りつつ、次の支配国の中で生きていったのです。おそらく、留まった人々は、少しずつ純粋なユダヤ教信仰から離れていったと思われます。いわゆる混交宗教です。伝統的なユダヤ教の信仰と星占いが混ざり合っていたのでしょう。神は彼らのユダヤ教の背景を用いて、真の救い主に導かれたのであります。

神は、私たちの背景にあることもよくご存じで、それら全てを御手に握って、私たちを救いに導かれるのです。

 

③三つの献げ物

 学者たちが献げた宝物は、黄金、乳香、没薬でした。

これら三つはキリストを表すものです。

 黄金は、王様の冠です。イエス様が私達にとって王である御方と言う事です

 乳香(にゅうこう)とは樹木から分泌される樹脂です。それが白く固まって石つぶのようになります。乳香の名は、その乳白色の色に由来します。この樹脂の塊を焚いて香とし、あるいは、香水などに使用する香料の原料として利用されました。

乳香は、祭司の務めに必要です。神に献げ物をする時に、乳香を加えるのです。乳香の立ち上る香りは、祈りのシンボルでもあります。お生まれになったイエスは私たちの大祭司、私たちのために祈ってくださるおかたであることを覚えたいのです。

もう一つ、乳香には癒やしの効果があります。いわゆるアロマ・セラピーです。これはイエスが、私たちをいやし主であることを象徴しています。

没薬は木の樹液から取っております。よい香りのする樹液で、寝室で使用したり、衣服につけたり、ユダヤ教の儀式で使用します。また贈り物として使われました。痛みを緩和する麻酔の効果もあったようです。

没薬は、イエスの十字架を表します。イエスキリストが、十字架にかかり、死んで葬られる時に、体に防腐剤として、また、香料として塗られたのです。

 彼らは神であるイエス・キリストに心を開き、尊い献げ物を献げたのです。

では私たちが献げる献げ物は何でしょうか?

聖歌141番「たえにくしきあかぼしよ」があります。

その歌の3節で、「我ら何を主に献ぐべきか?」問いかけます。そして、同じような宝物を献げるのかと自問します。4節で答えを歌います。主が受け入れて下さる献げ物は、「よき心の歌なり、罪くゆる祈りなり」と歌います。

 ヘブライ13:15では、賛美のいけにえを絶えず神様にささげようではないかと言う勧めがあります。私たちが主に献げるべき第一の献げ物であります。

 第二のものは、罪を悔いあらためる祈りです。ダビデは、罪を悔い改める詩編(51編)を書きました。そこで、神が受け入れて下さるのは、犠牲ではなく、砕かれた心だと歌うのです。