2020年1月5日の説教要約
「深みに漕ぎ出そう」 中道由子牧師
≪話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網を降ろして魚をとりなさい。」と言われた。≫
(ルカによる福音書5;1~11節、新改訳)
新年のために与えられたみ言葉を紹介したいと思います。
1、まずみ言葉を聞く
群衆が神の言葉を聞こうと押し寄せてきて、病人がどんどん癒やされていました。皆その人たちはぞろぞろと、主の後をついて行ったのです。ゲネサレ湖とは、ガリラヤ湖のことです。距離としては、20キロメートル、幅が12キロメートルの琵琶湖より少し小さい湖です。
奇跡を見た人々は、イエス様について行くとそこにちょうど朝方、漁師たちが漁を終えて戻ってきて網を洗っていたところでした。今日の仕事は終わり、ここまでというところです。
舟は2艘あって、だいたい15人くらい乗れるものだったようです。1艘はシモンのものでした。
このシモンの姑のことが、4章38節で書かれています。イエス様がシモンの家に入って行くと、シモンの姑が高い熱を出して苦しんでいた。それでイエス様が熱を叱りつけると、熱は去って行ったというのです。熱を叱りつけるということがあるのですね。
私たちを苦しめるものから主は解放して下さる。病であれ、精神的な問題であれ、私たちを苦しめるものから、家族を守って下さるお方です。姑の熱が癒されて、シモンにとっては奇跡を目の当たりに見た経験だったでしょう。そのシモンにここでイエス様は近づいて来られた。
シモンもイエス様の説教に耳をかたむける喜びを知っていました。
でも今は、違います。働いているからです。しかも一晩中働いて何の収穫もなかった。
徹夜して仕事をするってたいへんなことです。どんなに体が若い、たくましい者であっても疲れ果てることです。徹夜してたくさんの収穫があれば、その疲れも忘れるかも知れません。1本釣りではないのです。網を下ろす漁で一匹も取れないなんていうことは、おそらく滅多にあることではないでしょう。彼らはプロなんです。全く惨めで、空しい状態でした。彼らは、途方にくれていました。今はただ網を洗って、早く家に帰って眠りたい、それだけでした。そんな時に、神の言葉を熱心に聞こうとはなかなか思えません。説教を聞くのは、もっと暇があるときだと彼は思っていたでしょう。必死になって、この世の仕事に生きている人間にとっては、教会に行く暇などない。このせわしい事々の中で、この次にすることだと考えるでしょう。シモンの中にも、そのような思いがあったかもしれません。イエス様のようなやさしい御方であっても、この徹夜の労働のむなしさの中に、うずくまっている自分たちには今は関係ないと思えたのです。イエス様は網を洗っている、そんなシモンにイエス様の方から近づいて、その舟を貸してくれと声をおかけになられた。私たちの中にも働いても空しい思いにとらわれることがいくらもあります。どんなに上手な漁師だとしても、一生に何度かはこういうような、魚が全く取れないこともあります。
ここではイエス様は乗って、岸から少し漕ぎ出すように言われた。シモンも従います。
もう漁は終わっていましたが、イエス様が自分の舟に乗ってくださるのですから。
そして、押し寄せてきた群衆から少し離れた方がいいでしょう。イエス様はシモンの舟に腰を下ろして、舟から陸にいる群衆に教え始められたのです。
何かを始める前に、まずみ言葉を聞くことが先だということです。
この年も皆さんが聖書の御言葉を大切に読んで下さること、計画的に聖書を読むことをお勧めします。み言葉には力があります。特に力なく沈んでいるような時、主が近づいてあなたにみ言葉を聞かせるために、舟を貸してくれ、あなたの舟を貸してくれ、そう言ってそこで腰を下ろしてくださるのであります。私たちはそのために時間と場所を用意できるでしょうか。そして、み言葉がかけられていくとき、私たちは主の業を見るのです。
2、奇跡を体験する
4節「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。もっと深い所に漕いで行って、網をおろしてみなさい、と。これからもう一度、漁をしようと言うのです。
これは、人の目から見れば、愚かなことであります。夜通し働いて、漁によい夜に、しかもよく知っている漁師が選んだ漁場において何も収穫がなかった時、私たちだと、「これだから素人は嫌だなー」なんて思ったりしませんか?彼はいくらでも断る理由があったはずです。もう疲れ果てています。沖へ漕ぎ出すなんて、そんな漕ぐ力もありません。いくらでも断れたのに、この時、シモンは漕ぎ出して行きます。漕ぎ出した理由の一つは、「お言葉ですから」。これからはあなたのお言葉、それに賭けますというのです。あなたのお言葉に基づいて、あなたの言葉に賭けて、というのです。それは、ペトロの冒険でした。いつも魚を捕り慣れているガリラヤ湖の中へ行くだけですが、この時は冒険でした。
初めてやることです。何が初めてかというと、み言葉に基づいて踏み込んでいる、まったく新しい歩みだということです。
新しい年、主が私たちに用意しておられる恵みを私たちはまだ理解できません。触れることもできていません。でも主は良い御方で、私たちの人生に良いことを成してくださいます。
シモンたちが、夜通し働いて取れなかった、これも神のなさる業であります。
主を体験するためです。奇跡を見るためです。
ある仏教の月刊誌に、「人生は動く。動かすのはあなた自身だ。」と書かれていたそうです。
自分の力で何か出来れば、祈る必要もありません。自分でやってどうにもならなかったから、ペトロは、主の言葉に従い、お言葉にかけたのでしょう。
常識よりも、感情よりも、御言葉に賭けていく時、主の業を見るのです。
次々に網に魚がかかってきました。最初はああ、これくらいはあるかもと思ったことでしょう。
「beginner’s luck ビギナーズ・ラック」というのがあるそうです。
初めてやってみた人が次々と当たる、というようなことです。
でも、そんなラッキーなだけの状態ではない。6節から8節を見て下さい。
もう網が破れそうになって、みんなで網を引いたって一槽では足りない、仲間に合図してもう一槽を出してくれるように頼んだ。それでも、二槽でも、舟が沈みかけたほどの大漁で、「これは自分たちは、ガリラヤ湖の魚を全部捕っているのか!」と思ったのです。
これは人間業ではない。ペトロは恐ろしくなりました。主の奇跡を見たのです。
プロの漁師を超えた業です。主のお言葉に従うとき、私たちもそのような主の業を見せていただけます。
今年私たちに見せていただける大漁の恵みを前に深みに漕ぎ出していきましょう。
3、すべてを捨てて主の弟子になる
ペトロは、「主よ、私は罪深い者です。」と主の足もとにひざまずきました。
本当の意味で主を信頼しきっていなかったこと、自分の罪深さを痛感したのです。ペトロにとっては、こんな大漁は人生初めてのことで、あり得ないものを見てしまった、と感じたのです。
イザヤがイザヤ書6章において、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。セラフィムと言う天使が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と言って、神殿の入り口は揺れ動き、煙で満たされた。
それを見た時、イザヤは「私は災いだ。こんなに汚れているのに、主を見たから。」と恐れました。私たちが主の業を見るとき、わーっ、すごいな!で終わらない。
奇跡を見て、次には自分の内側を見させられるのです。この神の前に自分は立てる者なのか。
私たちは自分が言ったことを軽く忘れます。聞いた方は覚えている。でも、言った方は結構あの時はついとか、そんなことあったかな、と忘れていまっている。自分が神の前にどんな醜い者なのか、自分では認められない。でもこのイザヤのように、ペトロのように神の業、神御自身に触れたとき、自分の本質を、思い知らされるのです。ごまかしようがないのです。嘘がばれるとき、逃れようがないのに、さらにうまいこと言える、人をごまかせるとしても神様はごまかせない、私たちの本質であります。
自分は滅びるばかりの状態であると。ここまであなたはお見通しなのですか?というような見透かされた状態です。
漁師は生きた魚を殺しますが、イエス様は死んだ魚のような、私たちを捕らえて、生かして下さるのです。10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
ペトロは、すべてを捨てて主に従っていきました。