2020年8月9日の説教要約 「主の恵みをいただく」

2020年8月9日の説教要約

          「主の恵みをいただく」  中道善次牧師

                 <コリント第一 11章23~26節>

 

コロナウイルス感染拡大のために、礼拝式で聖餐を執り行うことを自粛しておりますが、聖餐の意味を味わうメッセージを取り次ぎたいと思います。

 

① 聖餐を受けられない奴隷たち

コリント教会で主の晩餐を秩序正しく行えなかったことが、1コリ11:20~21に記されています。

1コリ 11:20 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。

1コリ 11:21 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。

「主の晩餐」とあるのは、聖餐のことです。

私たちは聖餐というと、小さなカップにぶどうジュース(あるいは酒)を入れ、また小さなパンのかけらを口にする。礼拝の中でなされる儀式、そのようなイメージがあります。

ですから、飢えるとか、酔っ払うという言葉が出てくると、たいへん奇妙に感じます。パンのかけらを食べられるかどうかは、おなかを満たすことと関係があるのだろうか?小さなカップに入った葡萄酒を飲んで酔っ払うだろうか?

当時の礼拝と聖餐のスタイルが今とはずいぶん違いました。

礼拝を持つ時間帯が違いました。当時の人々は、日曜日の午前中ではなく、夕方に礼拝を持っておりました。その理由は、日曜日の休みが制定されていなかったからです。

みんな一日の仕事を終えて、夕方に集まり、夕食を食べてから礼拝をしたのであります。

教会で、みんな集まって食べる食事のことを愛餐会と私たちは呼びますが、コリントの教会の人々は、夕方みんなで集まり、一緒に食事をしたのです。しかしそれは単なる愛餐会だけでなく、聖餐の意味合いも持っておりました。私が学んだ神学校の教授は、コリント教会の主の晩餐は、愛餐会と聖餐式の中間のようなものであったと想像できるといわれました。

エスが最初になさった聖餐も、「過ぎ越の食事」というディナーの中でなされました。

そして覚えておくべきことは、コリント教会のメンバー構成でした。1コリ1:26~28です。

1コリ 1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。

1コリ 1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。

1コリ 1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです。

平たく言えば、奴隷の身分の人々がコリント教会には多かったのです。

奴隷の人たちが礼拝に参加するのは、一日の仕事を終えてからでした。肉体労働をする人々がほとんどでした。一日中働いて、疲れて、おなかをすかせて働きの場所から戻り、集会に参加したのであります。ところが、教会の中には、自由人と言われる立場の人もいたのです。彼らは仕事をしなくて良かったのです。自由で、時間に余裕があり、お金があったのです。集会に来るコンディションがまるで違ったのです。おなかがすいたから、彼らを待たずに先に食事をしよう。自分たちが用意した食事なのだからと言う理由もあったと思います。それは単なるわがままや無秩序ということだけでなく、奴隷たちの奴隷解放運動に反感を持っており、彼らへの嫌がらせが含まれていたかもしれないのです。

食事の順序を守らない主の晩餐の中に、奴隷たちに対する差別の問題が潜んでいました。

聖餐は、主を信じる人々が一つであることを意識するときであります。

 

②聖餐を受けるふさわしさ

1コリ1 11:27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血とに対して罪を犯すことになります。

ここに「ふさわしくないままで」という言葉が出てまいります。コリント教会の状況で言うなら、ふさわしくない状態とは、差別の心を持っていたことでしょう。

そこから自分たちのこととして適用するなら、「ふさわしさ」とはどういうことでしょう。

東京聖書学院の授業で、聖餐式について学ぶ時間がありました。

その授業の中で、同級生の一人が質問をしました。「先生、聖餐を受けるふさわしさとはどのようなことでしょうか?」

質問した神学生は、自分は「ふさわしくない」と思う傾向の強い人でした。

教授の答えは、「自分はふさわしくないと思っている人がふさわしい」。

ふさわしくないと思っている者がふさわしい。これが恵みの世界です。この神の恵みを一番深く覚え、味わう時が聖餐を受ける時なのです。

 

③聖餐の恵み

私の中学時代からの友人が京都におります。彼はカトリック教会のメンバーです。

彼が礼拝に出るときの言葉遣いが、プロテスタントの私と違う事に気づきました。彼はミサにあずかるという表現を使います。それはご聖体を拝領するというのとほとんど同じ意味なのです。

プロテスタントの者は、礼拝に出席すること=聖体拝領という意識は少ないと思います。メッセージを通して神の言葉を聞く。そちらの側面が強いと思います。

カトリックの聖餐の神学は、いただいたパンが、そのままイエスのお体になる。不思議な変化が体内で起こる。

プロテスタントでは、手にしたパンが霊的な変化を起こしてイエスのお体そのものになるという考えを持っておりません。しかし単なる象徴としての儀式でもありません。主の臨在を心に迎えることです。

私たちが聖餐でいただくことの出来る祝福、それは神の恵みを手にとって口にすることです。

私たちは、恵まれるという言葉をよく口にします。しかしそれは主観的な側面が強い言葉です。

しかし恵みとは、あったりなかったりするものではないのです。それを一番客観的にうけとる場所が聖餐です。ここに確かに神の恵みがある。

聖餐は、言葉を越えた体で感じる、体で味わう恵みです。

新聖歌49番「しももとがも」の賛美の中で、主の臨在と恵みを覚える時を持ちましょう。