2020年12月27日の説経要約 「聖なる聖なる聖なる神様」

2020年12月27日の説経要約

                            「聖なる聖なる聖なる神様」   照内幸代牧師

 

「彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな聖なるかな聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。』」

                     ≪ヨハネの黙示録4章1節~8節≫

 

本日はこの聖書箇所から、聖なる神様を礼拝するとはどういうことなのか学びたいと思います。

まず「四つの生き物」ですが、このセラフィムという天使は、昼も夜も休みなく、神様を褒め称えているとあります。私たち人間からすると、それは疲れないのかしらと思いますが、このセラフィムは、休みなく神様を褒め称える者として、神様がお創りになられた存在であるということです。つまり賛美することが彼らの使命なのです。彼らは神様を賛美するものとしてつくられたので、休みなく賛美することができるのは、彼らが使命に生きているということです。私たちも神様から作られました。神様によってつくられたということは、私たちもまた、それぞれに使命や役割を神様から与えられているということです。それは一人一人違いますが、その使命や役割というものは、神様の御心にかなうものであるということ、そして決して自分を損なうものではないということです。皆さんはどのような使命を神様からいただいたでしょうか。このセラフィムのように、神様を礼拝することを使命として与えられ、神様を礼拝することは自分にとって生きがいですというお方もいらっしゃるでしょう。私は会社で働くことが使命です。会社で働くことは私にとってちっとも苦ではありません。そして経済的に教会を支えますという人もいるでしょう。あるいは私は手先が器用なので、飾り物を作ることが好きです。教会にイースター飾りを捧げるのが毎年の楽しみですという人もいるでしょう。これらのどれをとっても、ある人にとっては本当に大きな苦痛であったりします。ですから自分がそれを喜んでできるということは、特別なことなのです。神様があなたをそのように生きるようにと願ってくださり、その賜物を与えてくださっているということなのです。祈ることでも、教会に来て礼拝をするということでも、もし皆さんが何か苦に感じずにできることがあれば、それを大事に続けなさると良いと思います。もしかしたら神様はそのために、みなさんをそなえていらっしゃるのかもしれません。

 

ただ賛美をしてハレルヤと神様をたたえるのも良いですが、もう一つ、大事な神様を褒め称える方法があります。それが、神の前に自らを低くするということです。この24人の長老たちは、頭に冠をかぶっていました。しかし彼らはこれを主なる神の前に投げ出し、自らを低くすることで神様を礼拝しているのです。この頭の冠は主なる神様が与えられる栄光の冠です。神様に忠実に歩んだ聖徒たちが、神様からいただく冠なのです。ところが10節11節にはこうあります。「主よ、私たちの神よ、あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」。この神を前にしては、自分の栄光なんて取るに足りない。本当にこの冠が相応しいのは神お一人に他ならないと神様の前にひれ伏すのです。自分を神の前に低くすること、これがもう一つの大切な礼拝なのです。

しかし私が最近思わされていることは、この地上にあっては、神様を礼拝できるということだけで私たちは豊かな恵をいただいているんだということです。私たちは健康がなければ、神様を礼拝することができません。具合が悪かったり、体のどこかが痛むだけで、礼拝に集中することができないのです。また環境も恵まれていなければ、会堂に集まって主を礼拝するということができません。今年新型コロナウイルスによってもたらされた脅威は、本当に礼拝ができるという恵について思わされました。私たちがこうして主を礼拝できるということは、決して当たり前のことではありません。主が私たちを恵み、礼拝者として必要とし、お用いくださったということを感謝したいと思います。