2021年10月3日の説経要約 「救いは主のもの」

2021年10月3日の説経要約

                              「救いは主のもの」  中道由子牧師

 

≪わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。≫

                     (ヨナ書2章1〜11節)

 

1、苦難の中で祈る

海に投げられ、気を失って前後不覚になっていたヨナが意識を取り戻したのは、暗く不思議なドームの中でした。神様はヨナが溺れてしまわないように、ヨナのために大きな魚を備えてくださったのです。魚に飲み込まれたヨナは、死んだも同然でした。しかし、同時に、その魚の腹は、ヨナが新しい命を得るための母親の胎のような役割も果たしていました。

ここで正直な疑問が湧いてきます。魚の腹の中で息ができて、3日間生きられるのだろうか?私たちは、聖書が書かれていることをそのまま信じています。

この時のヨナには、神の特別な配慮と不思議な環境があったとしか考えられません。

改めて、ここに書いてあることは、当たり前だけれど、本当にあったこととして書かれています。

なぜなら、マタイによる福音書12章40節にイエス様はこうおっしゃっておられる。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

エス様が、ご自分の死と復活を予告されるときに引用しておられるからです。

 ヨナは、当然死んでいるはずなのに、生きている!

この魚の腹の中は、神が用意された密室でありました。

そこで、ヨナはうめくように祈ったのです。

ヨナは主に見捨てられたと思っていました。しかし、主は呼べば答えてくださるお方であります。ああ、ここに主はおられると、ヨナはどんなにほっとしたでしょうか?

携帯電話は、相手が着信拒否をすると、コミュニケーションが取れません。

しかし、神様はいつも私たちの声に、祈りに耳を傾けてくださいます。

ヨナの方が、ニネベに行かないで、タルシシュ行きの船に乗った時、神様との電源を切っていたのではないでしょうか?

彼は誰とも交わりたくなくて、船底で寝ていたのです。

そんなヨナに対して、神様は嵐を起こしてでも立ち返ってほしいと願われたのです。

4節でヨナは、神様が海に投げ込まれた、と言っています。

ヨナにとっては、それは神の怒りとしか思えなかったでしょう。

本当に恐ろしい波に襲われたのです。しかし、その恐ろしい波の中にも神はそこにおられた。

神様は波の中にも、魚を備えて、逃げることができない、そのような場所に置かれたのです。 

一般的に、私たちは「痛い目に遭わないと分からない」と言われますが、霊的にも似た側面があるのではないでしょうか?

私たちは逆境ではなく、順境―順調な日々を送ることを願います。

しかし、順境ばかりだと、人は傲慢になっていきます。

詩篇119篇71節「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」

この詩篇の作者も言うように、人は痛い思いをして霊的な目が開かれ、悔い改めに導かれることがあります。神様の教えの恵みを知るのです。

それは、ヨナも同じでした。

 

2、主を思い出す

 5節「私は思った。あなたの御前から追放されたのだと。」

「もう故郷には帰れない。自分はもう死んでいくのだ。」とヨナは思ったでしょう。

そんな中で、ヨナは神殿を見たい、主を礼拝したいと思ったのでした。

 水草まで、頭に絡みつくような絶体絶命の時、

7節「しかし、わが神、主よ」と、この「しかし」は逆転の「しかし」であります。

絶体絶命の時も倒れてしまわないで、神を仰いだのです。

 生きてもう一度神殿で主に礼拝をささげたいと。

ヨナが祈りをささげ、その祈りは8節に「聖なる神殿に達した」と書かれています。

神がヨナに示した神殿は魚の腹の中にありました。

そこで、「わが神、主よ」と祈りが届いた確信を持つことができたのです。神様とのあるべき関係、交わりが回復したのであります。

神様に逆らっていた時、そのときこそ、自分は7節にある「滅びの穴」にいたのだと気づいたのです。そこから主は引き上げてくださった。

主に背を向けて生きていた、自分の生きたいように生きていこうとしていた、しかし、主が共におられない所こそ滅びの穴だと、告白したのです。

自分が生きたいように生きる、というのは、自分の方が神様よりも正しいとして、自分の考えを優先させているのです。

その時、実は神を失うだけでなく、自分自身も失ってしまうのです。

 ヨナは、自分を「海と陸を創造された天の神、主を畏れる者だ。」と船の者たちに紹介していますが、この神と個人的に深い交わりがなかった。

魚の腹の中で、ヨナは、この神様と人格を持って交わりたいと願ったのです。

 

 

3、ヨナの賛美

神様との関係が回復したヨナは、感謝をささげ、いけにえをささげて誓ったことを果たそう、と祈ります。

このコロナ禍の中で、私たちはこうして生かされています。

こんな時代が来るなんて誰が思ったでしょうか?

「食べ物屋は固い。」と言われていたのに、飲食業が危機に見舞われています。

日曜日には礼拝厳守と言っていた教会が、日曜日に教会を閉めなければならないなんて、こんなことは誰も予想していなかった。

でもどこでどんなことが起こっても、私たちがすることは変わりません。

主を賛美することこそ、私たちの力です。

感謝のいけにえ、ささげものを主の前にささげます。

魚の腹の中で、ヨナは主を礼拝して、立ち上がります。

「救いは主にこそある。」この神の救いを伝えようと、決心できたのです。