2021年10月10日の説教要約
「ヤベツの祈り」 中道善次牧師
≪歴代志上 4章9~10節≫
ブルース・ウイルキンソンが書いた小さな書物「ヤベツの祈り」の書き出しで、著者は次のように記します。「私はヤベツの祈りに出会ってから、毎日一字一句祈っています。そして30年がたちました。いまだにその祈りを止めていません。」
ミヤンマーでヤベツの祈りを紹介したところ、ミヤンマーで私たちをお世話して下さる方が、「私たちは家族で毎日ヤベツの祈りを祈っています」と言われました。
世界中にこの祈りと、その祈りに伴う祝福が広がっているのだと思いました。
私がこの本を手にしたのは、2001年11月24日、萩園教会の献堂式の一日前でした。そこからもう20年になります。
ヤベツの祈りの最後に、「主はその求められることをかなえられた」とあります。ヤベツは、祈った祈りを神によって受け入れてもらい、祈りが聞かれたのです。
ヤベツの祈りを20年祈ってきた説教者も、本当にそう思います。ヤベツの祈りを祈り続けていたら、確かにその祈りは聞かれるのです。
今日はヤベツの祈りのパートⅠとして、ヤベツの祈りの最初の二つの祈りを学びたいのです。① 私を祝福してください、② 私の国境を広げてください。
1、私を祝福してください
この本には、次のようなことが書かれています。
聖徒と呼ぶにふさわしい信仰の指導者の密室の祈りを、その部屋の前を通るときにドアが少し開いていたのです。聖徒の祈りを耳にしたのです。それは驚きでした。貧しい人々のための祈りではなく、リバイバルのためでもなかったのです。「私を豊かに祝福してください」でした。
ウイルキンソンは驚きましたが、当たり前のことを思いつかなかった。偉大な信仰の持ち主は、他の人々とは違う信仰の思考回路を持っているのだ。祈り方が異なっているのです。
神様は祝福を求める人が好きなのです。祝福を願うことを待っておられるのです。
ヤベツの祈りは、私を祝福してくださいから始まるのです。
それは楽観的な、おめでたい人の口から出た祈りではありませんでした。
ヤベツの名前は、「痛み」や「悲しみ」です。このような名前を子どもに付ける人がいるでしょうか。
Ⅰ代 4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。
出産が大変であった。あまりの痛みに母親は痛み(ヤベツ)と名付けたのです。
普通の子どもなら、いやがる名前をつけられたのです。そして、ヤベツは育ったのです。名前だけでいじめに遭った可能性があったのです。
親から望まれないで生まれてきたのではないかと自分の名前から思ったかもしれません。
聖書では名前がその人の将来を決定すると言われます。「悲しみ・痛み」という名前は、彼の人生そのもののようになって行く可能性があったのです。しかしそこを打ち破る、そこから解放される祈り、それが「私を祝福してください」だったのです。
自分の人生は「痛み・悲しみ」だという重くて暗い自己イメージを払拭したのです。自分は親から望まれないで生まれてきた。自分はかわいそうだという思いから解放されたのです。
ヤベツがここでどのような祝福を受けたかわかりません。しかしヤベツという名前のイメージが、悲しみや痛みから祝福に変わったのです。
もう一人「祝福」について思い起こしていただきたい人物はヤコブです。
ヤコブは、アブラハムの孫です。イサクがアブラハムの受け継ぎ、ヤコブにバトンタッチしました。
祝福を受け継いだヤコブには問題がありました。人を押しのけ、だます人物だったのです。
ヤコブは兄の長子の特権を奪いました。それだけでなく父イサクからの祝福の祈りも奪いました。
いろいろと問題があったヤコブですが、彼の中にあった本音は「祝福を受けたい」という強い願いでした。
創世記32章で、ヤコブは神と相撲を取るような祈りの格闘をしました。
ヤコブの求めた祝福は、兄から攻撃を受けないように。財産が守られるように。
しかし神の与えた祝福は、へりくだった心と兄との和解でした。
祝福には自分の都合の良さだけでなく、神様が与えたい祝福があるのです。
ヤコブとエサウの比較で言うなら、人格的にはどちらも問題があるのです。
あえてヤコブが選ばれ、祝福を受けた理由を言うなら、神様は求めるものが好きなのです。ご自分の祝福を求めるものが好きなのです。「重んじられた」、これは、神様がヤベツを気に入られたということです。厚かましい求めをしたヤベツですが、神様はヤベツを気に入られたのです。そして、その求めるところをゆるされた。それは祈りが許可されたというのではなく、願ったことがかなえられたのです。
2、私の国境を広げてください
この地境とは、働きの領域であると本にも書かれており、私もそうだと思っていました。
かつてここから語ったメッセージは、「私をもっと豊かに用いてください」でした。それはヤベツの祈りに出会う前の祈りでした。次のような祈りでした。私を、遣わされている教会だけでなく、神奈川教区でも、教団でも、さらに教団教派を超えても、そして日系人教会でも用いてください、と。
そして私が用いられる領域が広がってゆきました。最初に「もうたくさんです。ちょっと祝福を控えてください」という祈りをウイルキンソンがしたように、私も「神様、ちょっと国境の広がりをストップしてください。あまりに大変です」という祈りをしたことがあります。
国境の広がりは、神に用いられる領域の拡大です。
ヤベツの祈りの国境の広がりの第二は、文字通りの国境(テリトリー)の広がりです。
旧約聖書の時代には、自分たちの所有する地所や土地が広がるということを意味していたのです。
私は、自分たちの所有する地所が広がることはあり得ないと思っていました。日本は土地が高い。新しい場所を買うなどと考えもしませんでした。
しかし神様は、ヤベツの祈りを祈ってからの13年後に、神様は文字通り、茅ヶ崎教会の国境を、地所を広げてくださいました。
茅ヶ崎教会の物件を購入した時は、これがヤベツの祈りの答えだとは思いもしませんでした。
しかし振り返ると、ヤベツの祈りの通りであったのです。私たちの地境が広げられたのです。
ヤベツの祈りの祝福が、個人に、各教会に及ぶことを願います。