2024年1月28日の説教要約 「賛美の力、家族の救い」

2024年1月28日の説教要約

          「賛美の力、家族の救い」     中道善次牧師 

 

   ≪使徒言行録 16章25~34節≫

 

1、賛美が呼び起こす奇跡

使徒16章は第二次宣教旅行であります。順調にスタートしたフィリピ伝道ですが、19節から24節にかけて、困難に出会います。

使徒16:19~24 ところが、この女の主人たちは、金儲けの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、広場の役人のところに引き立てて行った。そして、二人を高官の前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。ローマ人である私たちが受け入れることも、行うことも許されない風習を宣伝しているのです。」群衆も一緒になって二人を責めたてたので、高官たちは、二人の衣服を剥ぎ取り、鞭で打つように命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。

ここは、目に見える出来事としては、パウロとシラスが牢に捕らえられたという迫害でありますが、その背後にあったのは、霊的な抵抗でありました。平たく言うと、悪魔の攻撃であります。

 パウロの霊的権威により、女奴隷から悪霊が出てゆきました。

使徒16:18 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると、霊は即座に彼女から出て行った。

女奴隷の主人たちは金儲けの手段を失ったことを嘆き、パウロとシラスを恨み、訴えました。訴えの内容は20~21節に記されてございます。ローマ帝国内ではユダヤ教は許されていましが、これをローマ人に布教することは禁じられていました。この時代まだユダヤ教の一派と考えられていたキリスト教パウロがローマ人に宣べ伝えることは、違法と見なされたのです。加えて、フィリピでは、反ユダヤ主義の市民が多くいました。そのあたりを計算に入れて女奴隷の主人たちは、このような訴えをしたのです。

彼らの計略通り、パウロとシラスを排斥する気運が高まり、暴力を受け、足かせをはめられ、牢獄に入れられました。彼らが入れられた「いちばん奥の牢」(24節)とは、地下牢のことだったようです。

   パウロとシラスが獄中で、祈りと賛美を奉げました。この獄中からの賛美によって奇跡が起こったことは有名であり、「獄中からの賛美」とか「賛美の力」という本が出るほどであります。マーリン・キャロザースが記した本が何冊もあります。お読みになることをお勧めします。

村上宣道師が記された注解書には、獄中で起こったことを次のように解説されます。「この様な状況の中における祈りと賛美こそ、正に奇跡と言うべきであろう」。

祈りの答えはまず人の心の内側から起こると言われますが、とても賛美できないような状況の中で賛美する「内なる奇跡」が起こったのです。

その内なる奇跡と連動するように、大地震や看守の救いという外側の奇跡が続いて起こりました。神さまからの内側の取り扱いを受けることなしに、外側の状況は変わりません。

あることについて一生懸命祈りながら、何も状況が変わらないとしたら、霊的な側面をチェックしてください。

そのチェックリストは二つあります。

その第一は、これは悪魔からの攻撃かもしれない。パウロとシラスの場合は、明らかにそうでした。悪魔からの攻撃に対して、最もよい武器は賛美です。賛美によって悪しき霊に対して勝利を宣言するのです。

そして第二は、現在の困難が、どのようなことであっても、この状況の中で主を賛美しますと告白するのです。私の内側に主を賛美する奇跡を起こしてください。そのように祈るのです。

続いて見てまいりましょう。

地震が起こった後、27節と28節で、他の囚人たちが逃亡しなかったとあります。これもまた、奇跡であります。これは看守の予想外の出来事でありました。ローマの法律によれば、囚人たちが逃亡するようなことがあったら、兵士達はその責任を厳しく問われ、死をもって償わなければならなかったのです。この奇跡的な状況に恐れおののいた看守は、二人を「先生方」と呼びます(30節)。それは、直訳すると「主たちよ」であり、相手に対して最大の敬意を表す呼びかけであるのです。

皆さんに、賛美の力を知っていただきたいのです。

皆さんが、何かの問題に直面した時、賛美してください。

次に申し上げたいことは、賛美を生み出す環境であります。それは困難な環境が多いのです。

私たちが賛美している多くの歌は、作詞、あるいは作曲される方が直面した苦しみの中で歌が生まれているのです。

「主は今生きておられる」、「いつくしみ深き」、「ゴッド・メイク・ア・ウエイ」などです。私達が身近に知っている歌は、身内を、愛する方を、亡くされた痛みの中から生み出されたのであります。

賛美について、最後にもう一つ。私たちが何かの問題に直面した時、「あなたのなさる事に間違いはありません」と告白する事であります。

フィリピに伝道にやってきた。牢獄に入れられたパウロとシラスはどんな祈りをし、賛美をしたのか想像しました。ヨーロッパに導かれた。フィリピにやってきて、順調に教会が立ち上がったのに、すぐにこんな目にあうとは、いったいどういう事ですか。ともすると、そのように文句を言いたくなることがあります。

しかし彼らは神がヨーロッパに導いてくださったことを振り返り、告白したのです。

神よ、あなたのなさる事に間違いはありません、あなたの導きは完全に正しいのです。そのように祈っているうちに、自然に賛美が出てきたことでしょう。

 

2、家族の救いの祝福

第二ポイントでは、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(31節)からメッセージを聞き取りたいのです。

この言葉は、家族の一人が救われたら、後は自動的に家族が、みな救われる事を保証する言葉ではありません。救いは各々が個人的にイエスを主と信じることによります。しかし家族の一人が救われると、それが家族の救いの始まりであることに間違いありません。

家族の救いに関することで、モーセは心を砕きました。

モーセは、出エジプトをなしとげた偉大な指導者です。でも彼は、外国人と結婚しました。その家族は他の神を拝む人々でした。民数記10章でモーセは、レウエル(出エジプトではイテロ)の子ホバブに言うのです。私達と一緒に旅をしてください。あなたを幸せにしますから。それは家族に向かって、教会に一緒に来て、イエス様を信じてください。あなたを幸せにしますから。そういう事です。しかしホバブは、いいえ、行きません。そのように答えるのです。それに対してモーセはもう一回説得をしているのです。聖書はホバブと家族が一緒に行ったのかどうか、民数記10章の記事では、はっきり告げていません。しかし、士師記を見ると、モーセの家族は神の民になったことが分かります。

皆様もご経験があるでしょう。家族に、一緒に教会に来てください。あなたを幸せにします。そういってもうまく断られてしまう。私たちもそのような経験がありました。

家族が主に導かれることの難しさを私たちも知っています。

それでも願うこと、祈ること、そして家族を愛することは出来ます。