2024年2月25日の説教要約 「誰にも責められない良心」

2024年2月25日の説教要約

    「誰にも責められない良心」  中道由子牧師

 

《こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。》(使徒言行録24章10~23節)

 

1、弁護士テルティロの虚言

カイサリアでのパウロの裁判で、原告側の弁護士として雇われてきたのがテルティロでした。おそらくギリシャ語を流ちょうに話すヘレニストのユダヤ人だったのでしょう。

ローマの総督フェリクスのところに来て、パウロを訴えます。

まず、テルティロは適当なお世辞を並べて総督フェリクスの関心を買います。

そして、パウロの告発を始めていきました。

まずパウロのことを5節「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者」と、治安上も問題があるかのように言っています。

 次に、「パウロは、ナザレ人の分派の首謀者」だという訴えです。

ユダヤ教の人たちは、キリスト教ユダヤ教からはみ出した異端くらいにしか考えていなかったのです。パウロこそはこの異端集団の最高リーダーだと言っているのです。

 三番目に、6節「この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。」と言って、具体的に訴因を提示したのでした。

実際に彼らがパウロを捕えたのは、一人の異邦人を神殿の内庭に連れ込んだと言う理由で、これは誤解であったし、証拠もありませんでした。

ただ、このような訴え方をすることによって、裁判が自分たちに有利に展開するのではないかという計算があってのことでした。

このようにテルティロは、パウロという人物は、ローマ人にとっても                 ユダヤ人にとっても、また政治的にも宗教的にも危険人物であることを強調しました。

頭のいい人です。大祭司に雇われた弁護士ですから、事実をその報告に都合よく言い換え、利用しているのです。こういう人は私たちの周りにもいるかもしれません。

 

2、正直なパウロの弁明 

 総督フェリクスに促されて弁明に立ったパウロは、一つ一つの告発に対して、決してフェリクスにへつらうことなく、事実をあげて弁明しています。それによって、弁護士テルティロは人を訴えようとして、かえって自分の不義が明らかになったのでした。

 まず第一に、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしているという訴えに対して、彼は、自分がエルサレムに上ったのは礼拝のためで、暴動を起すためではないと反論しています。また、誰一人パウロが騒ぎを起こしているのを見たと言う目撃者もいません。

 二番目に、自分が「ナザレ人という一派の首領」であるかどうかにパウロは答えなかったけれども、この特別な群れに自分が属することは認めました。

けれども、ユダヤ人に「異端」とみなされている自分たちの方が、かえって完全に旧約聖書の教えと一致している、特に死人の復活の事柄にも正しく関わっている点を述べて、その正当性を主張します。

そしてパウロは、義人も悪人も必ず復活し、神の裁きの前に立たなければならないと言う復活信仰をもっていることを明らかにしています。

人に責められないだけでなく、復活の主の前に立つ時、大丈夫な生き方をさせていただきたい。

 三番目に、「神殿さえも汚そうとした」という訴えに対しては、自分は神殿を汚すどころか、ユダヤ人に献金を携えて、幾年ぶりかで帰ってきたこと、その供え物のためにきよめを受けて宮の中にいたこと、もし宮を汚したと言うなら、その証人を連れて来られるはずではないかと言う反論を述べます。

パウロは、自分が復活に対する望みのゆえに訴えられても、宗教的な問題はローマが扱うことはできないと堂々と語ります。

このように、パウロは、自分を弁護する中でも福音を示します。

神の人は、いつ、どこででも、誰の前でもためらわず、福音を伝える時を逃しません。

パウロのことを「あいつは『疫病、ペストのような人間だ』」とテルティロが言いましたが、パウロが宣べ伝える福音には当時の社会の体制を根本から覆す力がありました。

同じ福音の力が今私たちにも与えられています。

 

3、総督フェリクスの恐れと貪欲

 総督フェリクスは、意外にもキリスト教について相当詳しい知識を持ち合わせていました。パウロの弁明を聞いて、背景や事情がかなり分かったと思われます。

しかし、彼はパウロを釈放しなかった。

テルティロとパウロの証言の真実性を正すために、裁判を延期することにしたのでした。

 それから数日経ってから、総督フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラと一緒にやって来て、パウロを呼び出し、個人的に「キリスト・イエスを信じる信仰について」、彼から話を聞いたのです。

パウロは彼らとの個人的な対話の中で、「正義と節制とやがて来る審判」(25節)について話して聞かせます。するとフェリクスは恐れを感じて話を打ち切らせ、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言って自ら逃げたのでした。彼の結婚は正しくなかった。

それで、「正義と節制と審判」という話の内容に対してまとも対応するには、今の生活を自分の生き方から変えなければならないという「恐れ」を感じたのでしょう。

フェリクスは恐れにより自分の命と人生を神に委ねることができなかった残念な人物でした。

 私たちは神の前にも人の前にも責められない、証しが立つ生き方をさせていただきたい。